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覇権争いと兵器の関係・序章

 人類の歴史は強い民族が弱い民族を征服してきた戦争の歴史」といっても過言ではありません。    有史以来、人類は覇権を巡る争いを長年に渡り繰り広げ、弱小国家は有無を言わせず強国に支配される運命となってしまう時代が続いてきました。      現在の世界地図はその得点表の結果ともいえますし、今でも地球上で紛争が絶える事はありません。

 いまの韓国は、19世紀から20世紀初めにかけて世界中が植民地支配競争に明け暮れていた時代の、 たかだか35年間、日本に植民地支配(実際は日本国民としての併合)されたからといって、 戦後100年も経とうかという今でも、日本に対し我々を支配した責任を取れ、などと執拗に謝罪を要求することを止めようとしません。

 しかし、当時の世界情勢は福沢諭吉が1885年(明治18年)に「時事新報」の社説に掲げた「脱亜論」にあるように、
 『....日本はすでに西洋文明を受け入れた。 近隣諸国にはシナと朝鮮があるが、 帝国主義国が来襲するなかで、両国が独立を維持するのは不可能であり 、 数年たたぬうちに西洋諸国に分割されてしまうだろう。 .....日本はシナと朝鮮の開明化を待ってアジアを興す余裕はない。  むしろ日本は両国と手を切り、欧米諸国と行動をともにし、 シナ・朝鮮に対しては西洋人とおなじように接するべきだ....。』、という時代でした。  その弱肉強食の時代において、 韓国(当時は朝鮮)や 支那(現中国)などの運命は、白人列強国の覇権争いの嵐の前で、まさに風前の灯だったのです。

 常識とは時代によって変化するものだといわれます。  「脱亜論」は平和な今の時代から見れば侵略を正当化する暴論などと非難されるでしょうが、 現実の歴史はまさに福沢諭吉のいうとおりの展開となっていきました。  世界は白人強国が軍事力で弱小国を侵略支配するのが当然という「食うか食われるか」の時代が続き、 アジア各国やアフリカ、中南米は次々とロシアや欧米の帝国主義国家の植民地(租借地)となっていったのです。

 そういう世界情勢を肌で知り、日本との歴史を熟知していた昔の韓国指導者たちは、日本に対し「戦争責任」などとという 「未熟な子どもの喧嘩」のようなリクツで 日本に言いがかりをつけてくることなどありませんでした。

 盧泰愚(ノ・テウ)大統領は1990年、日本の国会で、 「....こんにち、われわれは、自国を守れなかった自らを自省するだけで、 過ぎ去ったことを思い返して誰かを責めたり、恨んだりしません。 ......世界を一つにする友情の旅行ができるような時代を共に作っていきましょう。」、 と演説しています。

 2003年2月まで大統領だった金大中(キム・デジュン)氏は、 日本の国会で、『......歴史的に不幸だったのは、約400年前に日本が韓国を侵略した7年間と、 今世紀初めの植民地支配35年間であります。   わずか50年にも満たない不幸な歴史のために、 1500年にわたる交流と協力の歴史全体を無意味なものにするということは、実に愚かなことであります....。』、 と演説をして満場の拍手を浴びています。  以前は韓国にもまだまともな指導者が存在していたのです。(2020.4.2)


  

剣から長槍による集団戦法へ

 敵を打ち負かすには、相手に勝る武器が必要です。  人類は常に武器の発展を追い続けてきました。  当初棍棒や石だった武器は、やがて剣へと進化し、 その後長槍がメインとなっていきます。  剣は個人の腕力や技能が必要とされますが、長槍は一人ひとりの力は弱くても集団戦法によりその威力を存分に引き出せました。

 長槍の威力に最初に気づいたのは、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域に興った最古の都市文明である古代シュメール人といわれます。   彼らは剣や棍棒を振るう敵を長槍密集隊形で蹴散らし、古代オリエントに王国を築き上げました。(2020.4.)

 古代ギリシャは長槍をかざす「ファランクス」と呼ばれる密集陣形を組み、地中海の覇権を握りました。 「ファランクス」を形成する兵士達は恐怖や気ままから隊形を崩せば、 隙が生まれアッという間に決壊してしまうため、集団への忠誠心を求められました。  それがギリシャ各ポリスの独立意識を強めることにもつながった、とされます。

 古代地中海最強を誇ったギリシャでしたが、その後、より強力な「サリッサ」と呼ばれる長槍を用いた「ファランクス」を考案したマケドニア(東ヨーロッパのバルカン半島中央部) のアレクサンドロス大王の前に敗れます。   ギリシャの長槍が最長で2.5m程度だったのに対し、「サリッサ」は4〜5mに達したといいます。

 その後「長槍密集隊形」は、ローマの「ピルム(投げ槍)」、「クラウディウス(剣)」、「長槍」という武器を組み合わせた「レギオン戦法」に敗れ、しばらく歴史から姿を消していましたが、 ルネサンス期(14世紀〜16世紀)にスイスやドイツの傭兵部隊が「パイク」という長さ3〜7.5mの長槍を用い、 ヨーロッパ各地を転戦。  当時中世ヨーロッパでは「ランス」という長槍を持った重装騎兵が歩兵を蹴散らす騎兵優位の時代が続いていましたが、 この突撃攻撃を跳ね返しルネサンス期最強と恐れられました。


日本の槍事情

 日本は中世まで長い武器としては薙刀(なぎなた)が主流で、槍そのものはあまり使われていなかったようですが、13世紀の鎌倉時代から突如使われ始めます。     その背景には「モンゴル襲来」があったとされます。     それまで武士の戦いは1対1がルールでしたが、モンゴル軍の槍を使った集団戦法にはズイブン手こずったようで、その経験から日本においても槍を組み合わせた集団戦法の優位性を学んだ、 と言うわけです。

 その後14世紀の南北朝にかけて本格的に用いられるようになっていきます。  槍による集団戦法の登場で日本の合戦風景は一変し、武士に要求されるスキルも変化していきます。    集団戦が主流となって武者同士の個人戦は消え、必然的に戦いにおける個々の武勇や技量の比重は小さくなり、代わって集団を統率するリーダーの能力が重要視されるようになります。

 室町時代に勃興(ぼっこう・にわかに勢力を得て盛んになること)した、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒した下克上の背景には、槍の存在が大きく関係しているとされます。    応仁の乱により京都が荒廃すると、それまで守護代など既存の領主に支配されていた各地の地侍は、自らの利益・権益を確保せんと対抗するようになり、 戦国大名化していきやがて戦国乱期を迎えます。

 そのとき弓や剣術のような特別な訓練も必要とせず、集団を組み敵に突き出せばいい槍は格好の武器となっていき、 名のある武士が下級武士や土民に突き殺されることも珍しくなくなります。

 日本でもホピュラーな武器となった長槍は当初は3mほどの長さでしたが、その後威力を追及していった結果、甲斐の武田軍は3間(約5.4m)、 その武田氏と争った小田原の北条氏は当初2間半(約4.5m)だった槍を同じく3間へと、長さも伸びていきます。  織田信長は戦国武将の中でも最も槍を好んだとされ、 一説では兵に3間半(約6.3m)もの長さの槍を持たせていたとされます。  もともと尾張兵はさほど強い軍ではなかったため、弱さを長槍の威力でカバーしたというわけです。

        (2020.4.)


最強兵器だった馬

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神が忌み嫌う兵器

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銃を用いた戦い

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洋上の戦い

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