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日韓両国民の祖先は同じ?

 日本神話に出てくる神々が住む天上界を意味する場所、「高天原(たかまがはら)」が、実は韓国南部・慶尚北道高霊郡の高霊である、 という説が韓国では広く信じられているとされます。   この説によると高霊から皇族の始祖が海を渡り倭国に国を建てたということになり、日韓両国民の祖先が同じとする日鮮同祖論が成立するわけです。

 そもそも、人類の起源は最初アフリカで誕生したという説もありますから、元を辿れば人類の始まりは同じなのであり、いまさらどっちが早かったと競うこともなさそうなものですが、 日本に支配された歴史を持つ韓国としては、なんとしても日本を下に見たいわけで、皇族の韓国起源説は一つの願望もあるのでしょうか。

 このほかにも、中韓はアジアで最も早く近代化を成し遂げた日本がよほど羨ましいのか、我こそ日本国を指導した恩人である、という中韓の押し付け話は枚挙にいとまがありません。   日本で初めて国家が編纂した正式な歴史書とされる『日本書紀』には、百済から「王仁(わに)」という学者が派遣され、皇太子の師となったという記述があります。

 また現存する日本最古の歴史書とされ、日本の国土の成り立ちから建国、天皇の国土支配へと続く壮大な神話、伝説などが記されている『古事記』にも、 和邇吉師(わにきし=王仁)が和千字文と論語を伝え、日本に文字を普及するきっかけを作ったとされます。

 一方、王仁が伝えたとされる『千字文(せんじもん)』は、武帝が文章家として有名な周興嗣に作らせたとされる漢文の長詩であって、 全て異なり一字も重複していない1000の文字が使われ、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられたそうですが、王仁の時代には成立していないとされます。    この矛盾については、早くも江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されており、王仁は実在の人物とは認め難いとする説が多数存在しています。

 このように、王仁の記録は『日本書紀』と『古事記』以外には一切ないはずなのに、韓国には堂々と「王仁の遺跡」なるものが造られ、 位牌はもとより石像から生家まででっち上げられているといいます。   しかし、韓国で王仁の記録が現れるのは18世紀以降とされますから、相変わらずの「偽史(ぎし)」なのです。(韓国人の日本偽史 野平俊水)

 日本に35年間支配されたという今更どうしようもない怨みを晴らす手段として、韓国は日本に対し様々な「偽史」を仕掛けることを止めません。  「ハングル創製以前に韓国に固有の文字があり、 それは日本に伝達された」とか「百済は日本に先進文物を伝授してやった」などという「偽史」が次々に現れるのも、我々は日本に劣ってなどおらず、むしろ優れた民族である、 という主張なのでしょう。(2022.5.2)


 

古代朝鮮半島の三国時代

 朝鮮半島は4世紀頃から各地の小国同士がまとまり始め、大きく3つの連合体(馬韓・弁韓・辰韓)を形成します。  4世紀前半、 中国・晋王朝(265年〜420年)が弱体化すると、満洲南部から朝鮮半島の北部にかけて存在した「高句麗(こうくり)」は、 晋との主従関係を破棄して独立、313年に晋の出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅し、427年には満州の丸都から平壌に遷都し、朝鮮半島の北部一帯を支配するようになります。

 高句麗の勢力拡大は、朝鮮半島にも大きな影響を与え、小国連合体は晋に頼らずに自国を守る必要性に迫られます。  その結果、4世紀中盤に馬韓の国々が1つにまとまり 「百済(くだら)」が、辰韓の国たちがまとまって「新羅(しらぎ)」が出来上がります。

 また小国連合体のうち、新羅と百済の間に取り残された弁韓は、高句麗と直接隣接しなかったせいもあり、 小国乱立のまま存続し、伽耶(かや)諸国と呼ばれます。   当時の倭国(日本)は、伽耶の一部を含む地域を「任那(みまな)」と呼び、 ここに倭にとって不可欠な鉄の鉱山があったため、5〜6世紀ごろには「任那日本府」ともいえる 倭国の出先統治機関をおいたとされます。

 任那日本府の存在は、「日本書紀」の雄略紀や欽明紀、「百済本記」に見えますし、宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られます。   日本においては、 3世紀の中頃から造られるようになった古墳の分布や、副葬品の変遷などをみると、日本国内に強大な武力をもった「大王(おおきみ)」と呼ばれる支配者が力をのばしていたことが分かります。    この大王を中心とする畿内にあったとみられる政権は、「ヤマト政権」と呼ばれます。

 この頃、日本は「倭の五王」と俗称される王「(讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」たちが、 中国南朝の宋と直接の国交を持ち、五王の遣宋使が相次いで貢物を持って宋に朝貢。  宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが様々な史料で確認されています。  したがって、 当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもあります。  ただ、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は、 宋への遣使の事実を記していないとされます。

 438年の遣使では、五王のひとり「」が「安東将軍」を得ていますが、これは宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、 倭王の倭国内における地位は、支配者と言うより盟主的な存在であった可能性が窺えます。    478年の遣宋使を最後として、倭王が宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っていますが、この背景には、 五王の武(雄略天皇・ゆうりゃくてんのう)が、敵対する有力豪族たちを滅ぼし、天皇の権力を強化させ、 もはや中国が倭王の権威の保障になる存在ではなくなったので、宋への遣使はやめた、とする見方もあります。  倭の五王は天皇家の祖先、というわけです。

 現在の朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られ、 5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされます。   これらは日本列島に見られる前方後円墳とも共通していることから、 3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本の前方後円墳の手法を基にしたと見られています。

 これらの事例は、当時の日本列島と朝鮮半島の、政治的・経済的・文化的関係を表すものとして注目され、したがって、 ヤマト政権は加耶とつながることで、朝鮮半島から鉄資源を手に入れていたと推察されます。      任那日本府は伽耶諸国を支配した他、百済や新羅などの近隣の国にも影響力を行使し、562年に任那が新羅に併合されるまで存在していたとされます。

 朝鮮半島では、百済は高句麗と対立関係が続き、新羅は基本的には高句麗と友好関係を築きます。  高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代は、三国時代と呼ばれ、 およそ4世紀ころから7世紀ころまで続きます。(2022.5.31)


百済と同盟関係にあった倭国(今の日本)

 半島の南半分を支配し、高句麗・新羅と対立する百済が頼りにしたのが、倭国(今の日本)でした。    倭国としても、任那を朝鮮の最重要拠点として勢力下に置きたいわけで、ここが高句麗や新羅に支配されると、朝鮮半島との関わりが無くってしまうため、 399年百済と倭国は同盟を結ぶことになります。

 その後、百済が高句麗に攻め入られると、同盟を組んだ倭国は朝鮮半島にたびたび援軍を送る軍事行動を起こします。 卑弥呼が活躍していた200年頃の倭国は、内乱が続いて荒れていましたが、 300年代の倭国が朝鮮へ軍隊を送り込めたというのは、だいぶ国内統一が進んできたことを示唆しています。

 古墳時代初期(4世紀終わりから5世紀)には、日本・百済VS高句麗・新羅の間で大規模な戦いが起こり、日本が敗北したという記録が、 当時の高句麗の王・好太王碑(こうたいおうひ)の石碑に刻まれています。    それまで「馬に乗り戦う」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じ、これをきっかけに、 親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まったとされます。

 6世紀半ばまで、新羅と百済は高句麗に対抗する羅済同盟(らさいどうめい)を結んでいましたが、553年に新羅が百済から漢江流域を奪い、554年には百済の聖王が新羅との戦いで戦死、 それ以後、百済と新羅は敵対関係が続きます。   6世紀後半から7世紀前半にかけ、高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けますが、高句麗はその攻撃をすべて跳ねのけます。

 朝鮮半島の東側に位置する新羅は、中国にとって直接の脅威ではなかったため、中国とは良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。     高句麗は、隋の攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかったわけです。(2022.5.31)


百済は日本の植民地だった?

 百田尚樹氏の著書・『日本国紀』は、百済について日本の植民地のようなものだったのでないかと、という大胆な推測をしています。   『日本書紀』では、 百済は実にしたたかでずるい国として描かれており、従順な従属国ではなかったことがうかがえますが、6世紀の中頃には、百済から日本に中国暦の一つ元嘉暦((げんかれき)が伝えられ、 7世紀の初め聖徳太子の時には、百済から遣隋使とともに来日した僧・観勒(かんろく)から暦の作り方を学んだとされるなど、百済と日本は互いに強い影響下にあったことは事実のようです。

 日本は高句麗に攻められ国土の北半分を奪われていた百済を支援し、蘇我氏、大伴氏、物部氏の3豪族のなかで最初に権力を握った大伴金村は、任那の西半分の4県領土を割譲して分け与え(任那4県割譲事件)、 その後も百済支援を続けており、軍事支援も何度も行っています。

 また、百済からの大量の亡命者を日本は受け入れたとされますが、その亡命者(漢族も扶余族もいる)のDNAは、当然現在の日本人に色濃く受け継がれているはずです。   これをもって、そのDNAは皇室にまで及んでいる、 などというトンデモ説も出てくるわけです。    百済は日本の弟分のような関係と見る向きもありますが、れっきとした独立国だったのは疑いようがなく、日本の植民地だった、 とする説には疑念を持つ人の方が多いようです。  百済は中国南朝の文明を日本が輸入するにあたって、総合商社的な貢献をしたとされます。

 日本の植民地なのではという根拠になっている全羅道地域での前方後円墳の存在ですが、これは、主として512年に、任那の一部だった地域が百済に譲られた、 いわゆる「任那四県」の地域に存在し、古墳も百済領になる前のものと見られます。   したがって、前方後円墳の存在は、 任那四県が日本領だったことを示す証拠にはなるものの、これが百済が日本の植民地だったと断定できる決定的理由にはならない、 とみる説もあります。 (韓国人の日本偽史・野平 俊水 参考)

 一時期、日本語の「くだらない」は、「百済ない」から来たものである、などという説がありました。  しかし、 当時の日本語の語彙として「百済のものにあらず」というならまだしも、「くだらない」という言い回しは有り得ず、そもそも「くだらない」という言葉が現れ始めたのは江戸末期からとされます。    当時、上方から江戸に送り込まれる荷は「下りもの」といわれ、高級品扱いされたそうですが、反対に江戸から出すものは「下らないもの」として下級品扱いされたといいます。

 結局、この「くだらない=百済ない」説は、百済から様々な文化を受けた史実を隠蔽したいがための、愛国主義者によるマサニ「クダラナイ=百済ではない」という貶め話、 というのがルーツなのでしょう。   ただ、旧石器時代の遺跡が日本には1万以上あるとされますが、朝鮮半島にはたった50ほどといいます。(田中 英道氏)  その違いは一体何なのでしょうか。(2022.6.8)


  

「唐」と手を組んだ「新羅」

 中国大陸に誕生した強大王朝・「隋」は、朝鮮半島の最も北側の「高句麗」に対し、三度にわたり大規模な遠征軍を送り侵略を試みますが、頑強な抵抗にあいいずれも大失敗に終わります。   結局、 隋はこの失敗が大きな要因となって民衆が離反、内乱が起こり618年に滅亡し、618年に唐帝国が成立します。

 強大王朝というものは、必然的に対外侵略に乗り出すのは歴史の定石です。  中国周辺地域にも、モンゴル、ウイグル、チベット、ヴェトナムなどの諸国が次々に国家を形成しますが、 これらは多かれ少なかれみな中国の政治下に置かれ、一種の封建的ともいえる関係、いわゆる柵封体制に置かれます。  ただ、 中国など恐れない日本は、このような関係を嫌い、 唐帝国と対等な外交を行っています。

 「唐」も「隋」と同様、朝鮮半島侵略を企てますが、隋の失敗を教訓に新たな戦略を考えます。  それが「新羅」との同盟でした。  当時の朝鮮は、 百済・高句麗・新羅の三国に分かれていました。  そして、最も勢力が弱かったのは、後に朝鮮半島を統一することになる新羅でした。

 新羅は百済・高句麗の圧迫を受け滅亡寸前だったのですが、ここに金春秋(のちの太宗武烈王)という英雄が登場します。  唐が高句麗に戦争をしかけると、朝鮮半島の緊張が一挙に高まりますが、 高句麗と百済から攻められていた新羅の金春秋は、朝鮮半島征服を目論む唐に出向き、軍事援助を要請するという死中に活を求める策を取ります。  唐が手先を求めていることを知った上で同盟関係を持ち掛けたわけです。

 新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗と百済は、642年頃、軍事同盟(麗済同盟・れいさいどうめい))を結びます。  しかし、新羅も648年に唐と軍事同盟を結び、羅唐同盟が成立します。    さらに、654年、百済は大飢饉に襲われ、国力は弱まり、食糧問題も、国政も、治安も悪化します。  その後、新羅は強大な唐の軍事力を背景に戦局を逆転させ、660年に百済は滅亡します。

 その後百済の生存者らは、百済内乱の影響で日本に人質として来ていた百済最後の王である義慈王の王子・扶余豊璋(ふよ ほうしょう)の百済送還と、 日本からの援軍を要請します。  百済は豊璋を王位につけ再興しようとしたのです。(2022.5.31)


「白村江の戦い」で敗北した日本

 日本としても、かつて勢力を及ぼしていた加耶諸国(日本書紀では任那)はすでになく、百済は日本と朝鮮半島をつなぐ唯一の場所であったため、 時の斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子は、「唐と新羅の連合軍」に対し「百済復興の戦い」を決断します。

 日本が百済を軍事支援するということは、大国である唐を敵に回すわけで、もし負けてしまえば日本も滅ぼされる可能性があるため、大きな決断でした。  その一方、この戦いに勝った場合、 朝鮮半島に属国を手に入れることができる可能性もあります。  さらに、その頃、日本は中国大陸に遣隋使・遣唐使を送っていましたが、国内では646年の大化の改新以降、 急速に進められた天皇への権力の集中は、伝統的な勢力をもつ有力豪族や地方の豪族に不平や不満をもたらしていました。

 そこで朝廷は、対外戦争を行うことによって目を海外へ向けさせると同時に、権力の集中を図り、改新政治のなかで生じた豪族たちの不平不満を解消しようという思惑もあって、 百済を支援することを決めたわけです。   以降、都合3回に分け、第1回が661年の5月、第2回が662年の3月に軍を派遣しています。   斉明天皇も自ら出兵しようとしましたが、661年に道半ばで崩御。   その後は同じく参戦していた中大兄皇子が執務を引き継ぎます。

 当初、唐の軍が新羅に合流しておらず、戦いは倭国(日本)と百済の連合軍が優勢でした。  663年、日本が3回目に軍を派遣した際、朝鮮半島の南西部・白村江の河口付近(現在の錦江河口付近)で唐の軍と遭遇。   ちょうど百済の軍も日本軍を白村江まで迎えにきており、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅の連合軍による海上戦と陸上戦、 「白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い」が勃発します。

 海上戦では、唐・新羅軍が待ち構える白村江河口に、倭国・百済連合軍が突撃したものの、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上。     陸上戦でも、圧倒的な軍備と高度な指揮系統で勝る唐・新羅の軍は、倭国・百済の軍を打ち破り、百済復興勢力は崩壊します。   白村江で大敗した倭国水軍は、 各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せやっとのことで帰国。  豊璋は数人の従者と共に高句麗に亡命します。

 この戦いでは、勢力でいえば日本軍の方が上回っていたそうですが、大和朝廷側は唐と比較して対外戦争経験も乏しく、さらに寄せ集め集団で統一指揮官が不在のうえ、作戦も杜撰だったとされます。   また百済側もこの時点でさえ内紛を起こしている状態で、意思統一が全くされていませんでした。   この敗北により日本の朝鮮半島における地位は失われ、 日本は朝鮮半島から追い出されます。   遣唐使もこれを機にしばらく途絶えます。

 661年に急死した斉明天皇の後を継いだ息子中大兄皇子は、敗戦により外国に対する危機感を強め、国防を強く意識するようになります。    戦いの翌年664年には、唐や新羅の侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と呼ばれる兵士と、 烽(ほう)と呼ばれる狼煙(のろし)台を配置。   大宰府防衛のため土塁の山城や、土塁と外堀の水城なども造られます。

 皇子の防衛強化の施策はその後も続き、長門、讃岐、大和などの西日本各地に古代版・城を築き、667年には都を防衛上有利な近江大津宮(滋賀県大津市)に遷(うつ)します。

 翌668年、中大兄皇子は天智天皇として即位。  唐にならい、日本最初の令である近江令を定め、 さらに670年には最初の戸籍である庚午年籍をつくり、急速に内政を整えていきます。(2022.5.31)


 

「白村江の戦い」後、日本に亡命した百済人

 「白村江の戦い」の敗戦直後、滅亡した百済からは、日本に数百、数千人の単位で大勢の難民が押し寄せますが、天智天皇は積極的に百済人を受け入れ登用します。    あるものは政府高官になり、あるものは唐の侵攻に備え、築城の監督となります。  この当時の朝鮮半島は日本より文化がはるかに進んでおり、百済人は日本にとっては貴重な人材だったのです。

 その結果、政府内に入り込んだ亡命貴族たちによって、親百済派ともいうべき強大な派閥ができます。    亡命貴族たちはそれぞれ膨大な難民集団を抱えており、結果的に彼らは日本の政治・外交に対して大きな発言力を持つようになるのです。  現代日本人には、このような歴史のルーツを経た 朝鮮人の血統を持つ日本人は大勢いるわけです。

 百済人は新羅を民族の敵として心の底から憎悪する人たちであり、政府高官となった彼らが、天智天皇に「新羅とは絶対友好関係を結んではならない」とアドバイスしたことは想像に難くありません。     天智天皇としても「白村江」に軍事介入までするほどの親百済派であり、彼らの意見に耳を傾けたはずです。

 一方、高句麗が滅びた668年、唐と新羅は朝鮮半島の領有をめぐり睨み合っていました。  671年、唐は二千人の軍団を日本に送ってきます。  この事実は『日本書紀』に載っていますが、理由は書かれていません。    井沢元彦氏は、『それまでの敵と交渉するための常套手段として、まず「白村江の戦い」で捕虜にした日本兵を返還し、かわりに軍事同盟を結ばせようとした』としています。

 しかし、日本はこの申し入れに応じることはできませんでした。  この年の12月に天智天皇が死去したのです。  新羅にとっては願ってもない出来事だったわけですが、 井沢氏によると、あまりにもタイミングが良すぎる話であり、この背景には「新羅による天智天皇暗殺」という線が濃厚だとしています。

 そして天皇暗殺の犯人は、新羅の支援を受け、後に日本に親新羅政権を打ち立てた人物としています。  当時の日本は反新羅派の天智天皇と、 親新羅派の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が外交路線を対立しており、 そこに新羅のスパイが協力し、天智天皇を暗殺させて内乱を起こさせ政権を奪取させた、と言うわけです。  詳細は、『逆説の日本史A古代怨霊編』を参照してください。(2024.11.3)


朝鮮半島を統一した新羅・後三国時代

 「白村江の戦い」で勝利した唐と新羅の連合軍は、668年「高句麗」を滅ぼし、新羅は朝鮮半島統一を果たします。  これで日本は朝鮮半島における影響力を失ったわけです。     滅亡した「高句麗」の遺民たちは、満州に新国家「渤海(ぼっかい)」を建立します。

 その後、新羅は唐から属国扱いされるのに嫌気が差したか、唐・新羅戦争(670年〜676年)が始まり、 新羅が勝利し唐は朝鮮半島から撤退します。  この結果、 新羅が朝鮮半島の三国統一を果たし統一新羅時代となります。   このとき戦乱を逃れるため「渡来人」といわれる人々が日本に移動。   彼らにより日本に大陸の進んだ思想や技術が伝えられます。(歴史用語では特に4〜7世紀ごろに中国や朝鮮半島から日本に移り住んできた人々、およびその子孫のこと)。

 10世紀前半になると、唐の衰退に歩調を合わせるかのように新羅も衰退していきます。   それにより、朝鮮半島各地に地方政権が樹立するようになります。     新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱え、後百済(ごくだら・900年 - 936年)が、918年には王建が新羅北部で自立し高麗(こうらい)を建国します。

 朝鮮半島は、北部の高麗、南西部の後百済、 南東部の新羅が、三つ巴で戦う時代(後三国時代)が再び到来したわけです。  その後、高麗は935年に新羅を併合、 936年に後百済を滅ぼし、朝鮮半島統一を果たします。

 高麗は都を開城(現・北朝鮮ケソン)に置き、中国にならって科挙を実施し官僚制度を整えます。   また、 朝鮮半島独特の貴族階級である両班(ヤンバン)が形成されたのもこの時代でした。

 しかし、その後モンゴル帝国が金王朝(中国の北半を支配した女真族の征服王朝)を滅ぼし、朝鮮半島を統治していた高麗にも圧力をかけてきます。   1231年から1273年にかけ、主要な戦いが9回にわたり繰り返され、高麗の国土は荒廃します。  その後、高麗はモンゴル軍は海戦には不向きと判断し、 1232年に京畿道沖にある島・江華島(カンファド)に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めます。(2022.6.1)


  

冊封国「李氏朝鮮」の誕生

 この間、「江華島(カンファド)」に逃げ込んだ高麗朝廷内部は、モンゴルへの対応について、モンゴルとの戦争に反対し降伏を進めようとする文臣グループ(文班)と、 モンゴルとの戦争を継続しようと徹底抗戦を主張する崔氏が率いる武臣グループ(武班)が対立していきます。

 その後、文臣グループが武臣グループの一部と結託して崔氏政権を倒すと、モンゴルとの講和が進展します。   崔氏滅亡を告げるモンゴル宛て国書で高宗は、 「今まで我が国が貴国に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国へ属するのを嫌がったためであり、崔氏が死んだ今、 ただちに都を戻し、貴国の命を聞きます」、と全面的な従属を宣言する降伏文書を出し降伏します。

 現代の韓国も、自分に危機が迫ると命だけは助けてくれ、となりふり構わず相手にへりくだり、危害を加えそうもない日本には、 「未熟な子どもの喧嘩」で挑み続けてきますが、 その韓国の「その場しのぎ処世術」のルーツ(事大主義)はここにあるわけです。

 1269年、第24代高麗王・元宗(げんそう)が降伏して江華島を退去。  1270年に開城に還都したことで、約40年にわたった江華島政権は終了します。   しかし、江華島からの退去に従わない武人たちは解散令を拒否し、 高麗の首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力とした三別抄の乱を起こし、半島西南部の島・珍島(チンド)を本拠地として、 元や高麗王朝に抵抗します。   別抄とは、臨時編制の精鋭部隊の意味で、三別抄とは「左夜(さや)別抄」、「右夜(うや)別抄」、 「神義(しんぎ)別抄」からなる反モンゴルの姿勢をとる部隊です。

 1271年モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻略すると、三別抄は耽羅(だんら・済州島)に移って朝鮮南岸を脅かします。   1271年3月、三別抄は日本の朝廷に対して援軍と兵糧を求めますが、 日本側では事態がよく理解できておらず、この要求は無駄に終わったとされます。  1273年、1万2000の元・高麗連合軍は耽羅を攻略、三別抄勢力を壊滅させ元朝の高麗征服事業は完了します。    翌1274年に元は第1回の日本侵攻(元寇・文永の役)を企てますが、三別抄の乱がフビライ・ハンの日本遠征を遅らせたといわれます。

 その後の高麗は、元に征服された他の国々とは違い、独立国家としての地位を保ったままモンゴルの属国となります。  1350年代、元朝の衰えが顕著となると、 第31代の高麗王・恭愍王(きょうびんおう)は親元勢力を排除し、元の外戚(がいせき)として権勢を振るっていた、貢女(コンニョ)として元の国に渡り皇后の座に就いた、 という数奇な運命を持つ奇皇后の子孫、奇氏一族を討伐。   崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して、1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、 ようやくモンゴルから脱して独立します。

 しかし、元・末期の1351年に大陸で宗教的農民反乱・紅巾の乱(こうきんのらん)が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来します。  末期の元においては、 権臣が皇帝を擁立し、その権臣と皇帝を別の権臣が殺し、新しい皇帝を擁立するという事を繰り返したため、政治は混乱し、統治能力を失っていました。  そんな中、 元を北へ逐った(おった)朱元璋が、明王朝(1368年から1644年)を建国します。

 高麗軍は紅巾軍撃退に成功するものの、同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、この過程で力を得た李成桂によって高麗王朝は滅ぼされ、 1392年に朝鮮半島における最後の統一国家・李氏朝鮮が創建されます。

 以降、李氏朝鮮は長年に渡り支那の冊封国(さくほうこく・中国王朝を宗主国とした従属国)の立場に置かれ、明に臣下の礼をとりました。  「朝鮮」という国名も明が決めたものです。    その結果、中国社会の悪いところがすべて移入され、党派争いに明け暮れ、不正腐敗が蔓延る、いまの韓国社会が形成されていくのです。(2022.5.27)

 

秀吉の朝鮮出兵

 その後、時は移り全国統一を実現した豊臣秀吉は、朝鮮への出陣を命じ、天正20年(1592年)年3月、朝鮮へ15万の大軍を送り込みます。  これが世にいう「文禄の役」です。

 秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのかについては諸説あります。  従来の説は『秀吉の主君だった織田信長がシナを奪って家臣の息子たちに諸国を分け与えようとした』とか、 『国内の統一戦争が終わったため、不要になった兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとした』、というのが主流でした。

 しかし、最近では、『スペインによる東アジア支配に対し、日本が国土を護るための対抗手段だった』という説が唱えられ始めています。   当時スペインは世界の8割を植民地支配する大帝国であり、 アジアでスペインに征服されていない国は明国と日本だけとなっていました。  そのスペインが、 明国の植民地化を画策します。  もし明がスペインに支配されてしまえば、次ぎは日本が標的とされ、 いずれ明国兵が数の力にモノを言わせて日本に攻め込んでくるのは明白でした。

 それは元寇の再来であり、日本にとって脅威です。  ようやく戦乱の収まった全国各地の大名たちが、 秀吉の朝鮮出兵決定にさほど異を唱えず同意し、わざわざ遠い異国へ出兵したのも、当時のスペインによる東アジア制覇の情勢に危機感を持った、という背景があったわけです。

 秀吉の目的は、明を屈服させたうえで、スペインのアジア進出への防波堤として、東シナ海から南シナ海一体ににらみを利かす、というところにあり、明攻略の足がかりとして、 朝鮮に日本への服従と協力を要求したが、拒否されたため朝鮮を支配しようとしたのが真相だ、というわけです。

 1588年、当時無敵艦隊(アルマダ)を有するスペインが、イングランド本土最南端リザード岬沖で、無敵艦隊の約半分の戦力のイングランド軍との海戦で大敗北を喫し、 最終的に出発時の約半分を失いスペインに逃げ帰るという事態が起きますが、この辺りからスペインには衰退の兆しが見えはじめます。

 そこで秀吉は天正18年(1591年)9月、スペインの東亜地域支配の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、 「スペインのルソン総督府は、日本に入貢(にゅうこう・外国から使節が貢ぎ物を持って来ること)せよ」との国書を手渡します。

 すでに海軍力が大幅に低下していたスペイン総督府は、秀吉の恫喝外交に対し、報復的処置をとれるだけの力はなく、日本の要求は放置するしかありません。    これを好機とみた秀吉は、スペインが明を支配する前に先手を打つため、明攻略の足がかりに朝鮮へ15万の大軍を送り込んだのです。  ちなみに、 徳川家康は参戦していません。  当時家康は秀吉の命令で荒れ地の江戸へ領地替えされており、江戸の整備を理由にしています。

 朝鮮に上陸した日本軍は破竹の進撃を続け、第一軍の小西行長らは釜山城を包囲。  首都・漢城(現在のソウル)を落とします。  その後朝鮮半島のほぼ全土を征服し、 明の国境まで進出しますが、小西行長と加藤清正の内部対立や、冬季の厳しい寒さ、食料補給の滞りなどで士気は大きく低下。  1593年(文禄2年)4月、日本と明は講和することで合意、一旦休戦状態に入り日本軍は撤退します。

 その後1597年(慶長2年)2月、秀吉は再び14万の大軍を朝鮮に派遣します。 いわゆる「慶長の役」です。  この出兵は朝鮮半島南部にとどまり、沿岸に城を築いての持久戦となります。    そして1598年8月、秀吉が病死すると、日本軍は撤兵していくこととなります。

 そのときには、もうスペイン自体が英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東アジア支配などという野望も失っており、スペインが明を支配後、 日本に侵略してくる脅威は去っていたのです。     この間、加藤清正ら武将(武断派)と石田三成ら官僚(文治派)との確執が発生、これが後の関ヶ原の戦いと、豊臣政権の崩壊へと繋がっていきます。

 この一連の出来事は、表面的には『朝鮮侵略』という見方をされますが、朝鮮を経由しわざわざ明まで進出しようとした理由の背景には、 統一国家形成を成し遂げた日本が、いずれ降りかかるであろう国難に対し先手を打った、 『いかに国を護るかを考えた上での戦略だった』という側面があったともいえます。

 古来から日本民族に刷り込まれてきた『国家を護る』という気宇壮大な誇り高い民族性により、 国家存亡という数々の危機を乗り越えてきた日本。  それだからこそ、多くの大名たちが秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのだ、というこのストーリーも納得がいきます。

 その後の朝鮮半島を巡る日本の介在は、スペインがロシアと変わっただけで、歴史上まったく同じことが東アジアで繰り返されていき、韓国併合という時代を迎えます。   日本は有事のたび、朝鮮半島においてその都度国家安泰のためとるべき行動をとってきた、ということなのです。(2019.8.23)


「李舜臣」は日本軍を追い払った英雄?

 ちなみに、韓国では李舜臣(イ・スンシン)が、亀甲船を使って日本船を撃破、豊臣秀吉を打ち負かしたという教育がなされているため、 李舜臣は韓国を守った英雄だと信じられています。

 しかし、そもそも日本の撤退は秀吉が死去したため、帰国命令を受けたのが理由であって、 李舜臣によって日本軍が追い払われたわけではありません。

 この「慶長の役」における最後の大規模海戦といわれる、慶長3年(1598年)11月18日に起きた「露梁海戦(ろりょうかいせん)」も、 無血撤退の双方合意を取り付け、 日本に帰国する船団を援護するために出撃した島津軍の船団を、明・朝鮮の部隊が待ち伏せするという、相変わらずの中国・朝鮮による掟破りのだまし討ち戦だったのです。

 この海戦で李舜臣は日本軍の鉄砲に撃たれ死亡。  明水軍の副大将や幹部の武将数名も戦死していますが、島津側の主だった武将達は全員無事だったとされます。     また、様々な文献があるものの戦果についてはまちまちであり、島津家の公式記録『征韓録』でも、日本軍の戦死者は100人にも満たないとしています。

 さらに、突然の日本軍撤退という事態になっても、明側は日本軍の主だった武将を1人も捕縛出来なかったとされており、決して日本側が一方的に敗北して、 命からがら逃げ帰った、という状況ではなかったのです。(2019.8.23)


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(*1).....朴正煕大統領

第5代(1963年10月〜)から第9代(〜1979年10月)までの大韓民国大統領。
第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵は次女。
創氏改名による日本名は高木正雄(たかぎ まさお)。

1979年10月26日 大韓民国中央情報部(KCIA)の金載圭に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。 享年61。

(*2).....甲午改革(こうごかいかく)

1894年(干支で甲午)から1895年にかけて李氏朝鮮で行われた急進的な近代化改革。  清の属領とされていた朝鮮を、日本が独立国であると後押しし内政改革を求めた。

(*3).....日清戦争

1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争。

(*4).....韓国併合

1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合。 日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。

学校教育で日本語を教えたことが「言葉を奪った」とされるが、朝鮮語が科目として導入され、本の出版に朝鮮語が許容されており言葉を奪ったとまでは言えないという反論もある。   また、ハングル語を奪ったといっても併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、そもそもあまり普及していなかった。

(*5).....妓生 (キーセン)

妓生は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待の席で歌や踊りで遊興を盛り上げ、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性。 売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった。
甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(キーセンハウスなど)として残存し、現在に至る。

(*6).....韓国光復軍

1940年、国民党政権の臨時首都・重慶に創立された朝鮮独立を目指す亡命政府もどき「韓国臨時政府」の武装組織。 1945年の日本のポツダム宣言受諾により、実戦にほとんど参加することなく終わった。    軍隊と称していたが戦闘に参加することもなく、連合軍への参加は認められておらず、臨時政府といっても国家として承認されなかったので国軍でもない。 戦後連合軍によって解体を命じられた。

(*7).....征韓論

日本の明治初期において、板垣退助らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張。 しかし征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものとされる。 西郷の死後、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され西郷が征韓論の首魁として定着した。


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