ホーム⇒領土問題と戦後処理⇒北方四島帰属問題

日本の敗戦.....ポツダム宣言を受諾

 1941年(昭和16年)12月8日に開戦した太平洋戦争において、 当初は快進撃を続けた日本軍でしたが、米軍が本格的に反転攻勢に転じてからは劣勢一辺倒となり、 その後広島・長崎への原子爆弾投下などで追い詰められ、 日本は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れます。   この宣言には次の記載があります。

  「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」

 つまり、ポツダム宣言を受諾することによって、 日本が主張できる領土は、本州、北海道、九州、四国、それに戦勝国側が判断する「吾等ノ決定スル諸小島」、だけとされたのです。   それ以外の地域を日本の領土と主張することは放棄させられたわけです。

 ただし、解釈上問題となるのが、「吾等ノ決定スル諸小島」に、北海道の目と鼻の先、北東わずか数キロ沖に浮かぶ、国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・歯舞群島(はぼまいぐんとう)・ 色丹島(しこたんとう)、の北方四島は含まれるのか否か、という点です。

北方四島  北方四島は、国際法上、日本以外の領土になったことは過去一度もなく、日本政府の見解も「北方四島」はもともと北海道の一部であるとしています。

つまり佐渡島や小笠原諸島のように「....諸小島」に含まれるものと主張しています。

 1952年(昭和27年)に発行されたサンフランシスコ講和条約では、日本の領有を放棄させる領土を列挙する方式を採っています。

そこに名前の挙がっていない領土(諸小島)は、日本の領有がそのまま認められたものと解釈するのが妥当、というのが日本側の公式見解となっています。

 ただ、ロシア側は日本が無条件降伏した後、火事場泥棒のようにして手に入れた北方四島を返還する気などさらさらなく、 2018年時点では「歯舞群島」、「色丹島」の2島だけならば条件付きであれば、返還を考えてあげてもいいかな、という姿勢です。(2018.11.28)


日本とロシアの領土線引きの歴史

 北方四島のすぐ上、千島列島最南端に、得撫島(うるっぷとう)という島があります。 ここは北方四島とロシア領を分断するいわば分水嶺とも呼べる地点ですが、 昔から戦争や外交交渉などで占有権がコロコロ変わっています。

 択捉島と得撫島の間には、植物学で言う分布境界線(宮部線)があり、ここは(植物学上の)温帯と亜寒帯との境となっています。     得撫島より北の島には広葉樹林が見られなくなるといます。

 得撫島には戦時中に旧日本軍が作ったトーチカが残っており、旧ソ連の実効支配が始まってからは一時ソ連国境警備隊が駐留していましたが、現在は撤退しています。

 そもそも、千島列島というくくりについての解釈についても、日本政府の腰が定まっていないという問題もあります。   日本の平和条約国会においても、一時日本政府は「ヤルタ協定(*1)のいう千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれる」と説明していた時期もありました。   のちの1956年2月にこの説明は取り消されています。

 1854年の日露和親条約で、択捉島と得撫島の間が日本とロシアの国境と定められますが、樺太については正式に定めることができませんでした。     その後のクリミア戦争以降、ロシアの樺太進出が本格化したことによって、樺太はロシア人、アイヌ、日本人が雑居し不安定な状況となります。

 1875年(明治8年)に結ばれた『樺太・千島交換条約』により、日本は樺太全土の権益をすべてロシアに譲る代わりに、 千島全土を日本領に定めることができました。    もともと日本固有の領土だった北方四島に加え、戦争ではなく平和的な話し合いにより、「日本が千島列島全域を領有する」、ことが確定したわけです。

 ただ、樺太と千島列島を比較すれば、面積、資源量ともに、圧倒的に樺太の方が有利で、取引としては失ったものが大きなものでした。    しかし、これによりロシア艦隊は太平洋への出入りが困難となるわけで、 のちの日本海海戦でも日本有利に働きます。  この時代辺りまでは、日本人は交渉上手だったのです。

【千島列島領有権の歴史】

 これらの歴史的経緯から、「吾等ノ決定スル諸小島」という部分に左右されるのは、戦争や外交交渉などの結果で占有権が左右されたウルップ島以北を指すものであり、 それより南の古来から日本の固有の領土である北海道の一部・北方四島は、そもそも領土問題の対象外である、というのが日本の見解です。

 2018年現在、千島列島はロシア連邦が実効支配しているものの、日本政府は国際法上、帰属未定地であるとしています。(2018.11.29)


  

「北方領土返還交渉」破綻の裏側

 アメリカは、日本中どこにでも米軍基地を作れるという説があります。   外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、 『アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる』、『日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない』 という見解が、明確に書かれているからです。

 つまり、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、日本の外務省は、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない、 とはっきりと認めているというのです。   これまで長くつづいた「戦後日本」という国のかたちは、実はこのような裏掟に束縛されてきた、ということなのでしょうか。

 日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、このような大原則が存在するため、たとえば『北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない』となってしまうというのです。     ロシアがこんな条件を呑むはずないはないわけで、2016年の安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」では、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと期待されましたが、 プーチン大統領が「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」という基本方針を知ったため、領土返還交渉がゼロ回答に終わったとされます。

 このような掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている、とされます。  残念なことに、 こういう「日米間の隠された法的関係」ともいうべき裏掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、 占領期以来の軍事上の密約を起源としているといいます。  まさに、「リアル陰謀論」とも言えそうな話ですが、もし、この説が事実としたら、日本国にとって非常なマイナスでありその被害は計り知れません。

 日本が独立したあと、アメリカは軍部の要望を実現するため日米合同委員会という組織を残したとされます。  この組織は毎月会議を開き、米軍の軍人たちが日本の官僚と直接協議して指示を与えているというのです。     しかし、本来ならばどんな国であれ、相手国の政府と最初に話し合うのは大使や公使といった外交官に決まっているはずです。  そこで決定した内容を軍人に伝えるというのが、 「シヴィリアン・コントロール(文民統制)」と呼ばれる民主国家の原則です。

 この日米合同委員会のありかたの不自然さは、元はと言えば「敗戦後、日本を独立させることに絶対反対の立場をとっていたアメリカ軍部」にあるといいます。  アメリカ政府がどうしても日本を独立させるというなら、 それは、「在日米軍の法的地位は変えない半分平和条約を結ぶ(陸軍次官ヴォーヒーズ)」あるいは、「政治と経済については、日本とのあいだに『正常化協定』を結ぶが、 軍事面では占領体制をそのまま継続する(軍部を説得するためのバターワース極東担当国務次官補の案)」というかたちでなければならないと考えていた、というわけです。(「アメリカ外交文書(FRUS)」1950年1月18日)。

 つまり、戦後日本は、「在日米軍の法的地位は変えず」、「軍事面での占領体制がそのまま継続した」、「半分主権国家」として国際社会に復帰したということです。  アメリカ大使館がまだ存在しない占領中に、 米軍と日本の官僚とのあいだで行われていた異常な直接的関係が、いまだに続いており、その体制を長く続けていくための政治的装置が、1952年に発足した日米合同委員会、というわけです。

 戦後の日本は、国会の承認も必要としないし、公開する必要もなく、ときには憲法の規定を超えることもある、という日米間の合意が存在しているわけで、日米合同委員会の存在がある限り到底独立国家とは言えず、 「日本の対米従属」という戦後最大の問題解はほど遠い話です。  「航空法特例法」には、「米軍機には、〔最低高度や飛行禁止区域を定めた〕航空法第6章の規定は適用しない」とあるそうです。    日本人を守るため危険な飛行を禁止する立派な航空法が、米軍に関しては「適用除外」になっているという事実を知ればなおさらです。

   いつの日にか、この憲法でさえ米軍には機能しないという、「日米間の隠された法的関係」が表ざたになったら、日米関係はおろか、日本の安全保障に対する取り組みにも、大きな変革が要求されるはずで、日本の未来も大きく変わって、 真の独立国家を目指すキッカケになるかもしれません。  『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(矢部宏治・講談社現代新書)。  (2024.11.4)   


戦争で失った領土は戦争で取り返すしかない

 そうは言っても、敗戦国の日本は勝利国側が制定したポツダム宣言の解釈に左右される、という点に変わりはありません。    ロシア側も、「第2次大戦の結果を認めることが絶対的な第一歩だ」、と北方領土はロシア領と日本が認めることが交渉の前提としています。

 「戦争で失った領土は戦争で取り返すしかない」というのは歴史の事実です。     日本がポツダム宣言を受諾し戦争終了となったにもかかわらず、ソ連軍が日本への侵攻作戦をかけたのも、領土問題は取ったもの勝ちで、奪った方に支配権があるからです。

 1945年8月18日未明、突如ソ連軍が千島列島最北端の占守島(しゅむとう)に上陸作戦を開始します。 ソ連軍は、アメリカによって日本が占領されてしまう前に、 自分達も日本の領土を我が物にしようと、すでに終戦となっていたのに千島列島を南下し北方領土を占領した後、北海道まで手中に収めようと軍事行動を起こしたのです。    まさに「火事場泥棒的侵攻」でした。

 すでに武装解除していた日本軍でしたが、このソ連軍による侵攻作戦を察知、急遽兵力を占守島に集めます。    北海道まで手中に収めようとするソ連軍の侵攻作戦を食い止めるため、必死の祖国防衛戦を展開します。

 日本軍は上陸してきたソ連軍を一時海岸線まで押し戻す奮戦を続け、そのおかげで時間稼ぎが出来ました。  その間に国際社会からソ連を非難する声が大きくなり、 ソ連軍は北海道占拠をシブシブ諦めることになるのです。

 日本軍はソ連軍に投降し戦いは終わりましたが、日本軍の死に物狂いの奮戦により結果としてロシア軍が北海道に上陸することは阻止できました。  日本は祖国分断の危機を危うく乗り越えたわけです。   強い軍隊を持つことがいかに重要か、この出来事が証明しています。

 ただ、このロシアの火事場泥棒的侵攻により、日本人は千島列島と北方四島から追い出されてしまいました。  その後ロシア人が我が物顔で北方四島に居座り続けているわけです。

 本来であれば、戦勝国ロシアが北方四島は自国領土と確定して終る話が、なぜ戦後70年以上も経つのにまとまらないかといえば、日本とロシアがいまだに平和条約を締結していないからです。    北方四島の帰属(どちらの領土か)という問題は、平和条約が結ばれない限り永遠に棚上げされ続けるのです。

 その後、戦後も時間が経過するにつれ北方領土問題への関心は徐々に薄れていきます。  領土問題の担当大臣も、本気で解決に取り組もうとする人物もいなくなり、 挙句の果てには、国会質問で北方四島の島名さえまともに答えられない大臣が次々と任命されてきました。  こんな姿勢で重要な領土問題が進展するはずはありません。

 明治時代と違い、現代の日本人は相手と交渉して物事を解決する、という能力が欠如している民族であることが証明されたわけです。 結局、日本はなにか事が起きない限り、 自力で事態を動かすということが出来ない国なのです。(2018.11.30)


  

国際規範違反だったロシアの北方四島占拠

 2019年、ロシアのラブロフ外相は、日本が北方四島の領有権を主張するのは『国連憲章の義務に明白に違反している』と述べ、日本の国内法で『北方領土』という呼称を使っていることを批判しています。     さらに『第二次大戦の結果を世界で認めていない唯一の国だ』とまで言い切ります。

 しかし、毎日社説は理不尽なロシアの主張に反論します。

 「ソ連は終戦間際に日ソ中立条約を破って北方四島に侵攻し占拠して領土拡大を試みた。 この行動は国際規範違反であり、根拠のない主張を繰り返しているだけだ」。

 「ラブロフ氏は国連憲章107条を引き合いに国連憲章の義務違反を主張するが、これは国際法上、ロシアに北方領土の領有権を認めたものではなく、日本に従うべき義務を定めたものでもない、  大戦の結果として『敵国』に対してとった行動は『無効』となるものではないという趣旨で、個別の降伏条件について国連は責任を負わないことを目的にした条文とされる」。

 「ロシアは『大戦の結果』として北方四島がロシア領になったと主張する。 その根拠とするのが1945年の米英ソ首脳によるヤルタ協定だ。   だが、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦と千島列島引き渡しを示し合わせた密約に過ぎず、国際法としての拘束力はない。  日本は当事国ではなく拘束される義務はない。 米国も後に密約を『無効』と宣言している」。(2019.1.24)


サンフランシスコ講和条約

 1952年(昭和27年)4月28日、第二次世界大戦における戦争状態を終結させる平和条約、サンフランシスコ講和条約が発効されます。

 国際法上はこの条約の発効によりアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と、日本との間の「戦争状態」が終結することになります。 連合国構成国であるソビエト連邦は会議に出席したものの、 日本側とロシア側の認識が食い違い、ロシアは条約に署名しませんでした。   条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われます。

 このときロシア側が条約に署名しなかったため、日本側は、「千島列島並びに南樺太の最終帰属は、サン・フランシスコ平和条約締結国、ソ連及び日本の共同協議の対象になるべき」、 という見解をとります。  つまり、北方領土問題は今後の話し合いの中で最終的に決めるべきもの、という認識を持ったのです。

 このとき中国は中華民国(現台湾政府)と中華人民共和国(中国)は2か国に分かれてしまったこともあり、 サンフランシスコ講和会議に招待されず、条約は締結していません。     しかし、中華民国についてはその後日華平和条約(1952年8月5日に発効)を締結し、そこで、サンフランシスコ講和条約を追認しています。     インドネシア、インドとは後に個別に講和条約を締結・批准しています。


対立する日ソの主張

 1952年(昭和27年)4月28日に発行されたサンフランシスコ講和条約で、日本側の全権代表であった吉田茂首相は、この条約署名の前日、 「日本は、千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とし、「歯舞・色丹島が北海道の一部であり、千島列島には含まれていない」、と明確に言及します。

しかし、国後島・択捉島については当時の日本政府は、「国後島・択捉島は南千島」と述べただけで、元来から日本の領土である、と強く主張しなかったとされています。

 日本側の言い分は、そもそも、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約により千島列島は日本領となっており、 それがサンフランシスコ講和条約において日本は千島列島の領有権を放棄させられた形になった。   しかし、ソ連はその条約に調印していない。    従って国際法上千島列島の帰属は未確定のままであり、現在千島列島は帰属未定地である、というものです。

 現在北方四島はロシア連邦が実効支配しているが、北方四島どころか、千島列島全体が日本領であると主張するのも吝かではないのです。    「吝か(やぶさか・気乗りしない)ではない=(積極的に)やってもいいよ、の意」

 相手が1000円で売ると言ったら、こちらは500円なら買うと言う、その結果750円辺りで取引成立、となるのが交渉です。    でも奥ゆかしい日本人は、千島列島全体を交渉対象とせず、せめて古来からの領土である北方四島だけは日本に返して、という処からスタートしてしまいました。     この辺りの駆け引きが、大坂のオバちゃん以外、日本人は不得手なのです。 いまではロシアは四島どころか二島でさえ返すのを渋っています。

 それどころか、なかなか領土交渉が進展しない間に、ロシアによる北方四島の実行支配がますます進み、すでにロシアにとって北方四島は必要不可欠な島となりつつあります。    いまさら日本が、そこは我々の領土だったんだから返して、などと言えない事態になりつつあるのです。


動き出した日ソ交渉

 1953(昭和28)年3月、独裁者のヨシフ・スターリンが死去し、その後共産党第1書記に就任したニキータ・フルシチョフは米ソ対決路線と決別し、平和共存路線に転換、 日本との関係改善にも前向きだったとされます。

 日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相(第5次吉田内閣)が1954年(昭和29年)12月10日に退陣し、アメリカ以外の国も重視する独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代した事で(第1次鳩山一郎内閣)、 外交交渉開始への環境が徐々に整っていきます。

 1955(昭和30)年1月早朝、鳩山一郎首相の邸宅に駐日ソ連代表部首席代理、アンドレイ・ドムニツキーが訪問。     ドムニツキーは「ソ連政府からの文書をお渡ししたい」、とソ連に国交回復交渉を開始する用意があることを伝える書簡を取り出します。

 それは発信者の氏名も日付も記載されていないもので、鳩山がその点を尋ねてもドムニツキーは「この文書は本国からの命令によるものだ」と返答するばかりだったといいます。 国連大使、沢田廉三が書簡がソ連政府の公式文書だったことの確認を取ったといいます。(2018.11.30)


第1次ロンドン交渉

 鳩山はソ連との国交回復交渉に踏み切り、交渉は1955(昭和30)年6月3日からロンドンのソ連大使館で始まります。    日本側全権は外務次官や駐英大使を務めた衆院議員の松本俊一。 ソ連側全権は元駐日大使のヤコブ・マリクです。  しかし交渉は難航し自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって交渉は一時中断します。

 8月27日、鳩山一郎内閣の外務大臣だった重光葵外相は、全権大使の松本俊一氏に、「2島返還で妥協してはならない。 国後、択捉の引渡しも主張し、 4島返還の最低ラインは絶対譲らないよう」との訓令を出していたとされます。 ここまでで松本・マリク会談は第13回を数えます。

 ただ日本側としては北方四島を含む千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であると主張したいところですが、敗戦国の日本がこれを全面的に押し通せるはずもなく、 弾力性をもって交渉にあたるという心構えだったとされます。


      

第2次ロンドン交渉

 1956年1月にロンドンで行われた第2次ロンドン交渉において、非公式会談の席上松本氏は、「....日本固有の領土である国後、択捉両島の返還は、日本全国民あげての悲願であり、 これを無視しては交渉の推進が困難である....」、と述べたとされます。

  これに対してマリク全権は、「....千島列島その他の領有は合法的にソ連に帰属したものであり、歯舞、色丹を返還するというソ連の態度は、 史上未曽有の寛大な措置である。  ソ連側はその返還に特別の条件を付するものではなく、なんらの代償を求めるものでもない....」、とはねつけたといいます。

2島返還でも有り難く思え、というわけです。 これでは交渉が進展するはずはアリマセン。 ソ連は、あくまでも歯舞・色丹の引き渡しをもって平和条約の締結という主張は変えようとしませんでした。     これにより交渉は暗礁に乗り上げ、交渉は1956(昭和31)年3月20日決裂します。

 この交渉で交渉担当の駐イギリス大使マリクは、択捉、国後を含むその他の地域はソ連領であることは疑いなく、いかなる国との協議にも応じないと主張。    歯舞、色丹の返還には応じるが、軍事基地としないことを条件としたため、交渉は中断します。

 このロンドン交渉の回顧録には、北方四島返還について鳩山首相は非常に熱心であるにかかわらず、重光外相はいわゆる慎重論者でありすこぶる熱意がなかった、とか、 重光外相は松本氏からの詳細な報告を鳩山首相に見せていなかった、など内幕が色々書かれているようです。

  交渉決裂を受け、ソ連は3月21日、北洋水域に一方的な漁業規制区域を設け、日本のサケ・マス漁船を締め出します。  明らかに交渉決裂への報復措置であり、 この規制ラインはソ連首相、ニコライ・ブルガーニンの名から「ブルガーニン・ライン」と呼ばれます。

 やむなく日本政府はソ連に漁業交渉を申し入れます。   鳩山首相は交渉役に自民党の実力者で農相の河野一郎を任命。  河野はすぐにモスクワに飛びますが、 漁業相アレクサンドル・イシコフ相手では埒か明ず、河野はブルガーニンとの直接交渉を要請します。

  5月9日、河野は通訳も入れずブルガーニンと直談判し、日ソ漁業条約をまとめ上げ、国交回復交渉の再開も決めます。  河野はブルガーニンの前で紅茶をひっくり返したといううわさもあります。

 ただ、これが後に「河野−ブルガーニンの密約」として問題視されることとなります。   河野が会談で「制限区域内の漁業を認める代わりに択捉、国後の返還要求を取り下げる」 という条件をのんだという内容ですが、真相はやぶの中です。


第1次モスクワ交渉

 1956(昭和31)7月31日、日ソ交渉はモスクワに舞台を移し8月1日から第1次モスクワ交渉が開催されます。    日本側全権代表は重光外相、ソ連側は外相、ドミトリー・シェピーロフでした。

 重光葵外相は択捉、国後を含む4島返還を求めますが、ソ連はあくまでも歯舞・色丹の引き渡しをもって平和条約の締結という主張は変えようとしませんでした。    このソ連側の強固な姿勢にさすがの重光も「刀折れ、矢尽きた」と漏らし四島返還は無理と判断。 国後・択捉をソ連領とするソ連案をそのままのむ以外にはないことを決意、 重光外相は歯舞・色丹の2島返還で平和条約に署名しようといい出したとされます。

 これに対し松本氏は、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮しこれに反対します。   重光外相は一切を委任されており請訓(せいくん・外国駐在の大使・公使・使節などが本国政府に指示を求めること)の必要はないと反論しますが、 松本氏の強硬な反対を受けしぶしぶ請訓に応じたとされます。   このとき重光外相が自説を押し通していたら、その後の進展も違ったものになっていたかもしれません。

 請訓を受けた鳩山首相は、閣僚、党3役の到底受諾できないとの意見で一致。  重光外相に対し「ソ連案に同意することには強く反対であり、 国内世論も反対論が強硬なのでソ連案に同意することは差し控えられたい....」、と返電したといいます。

 8月中旬、日本は日ソ交渉の中断を決定。 重光外相はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄ります。  その際米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明するのですが、 これが「ダレスの恫喝」という話へと繋がっていきます。


 

「ダレスの恫喝」

 2016年12月、プーチン大統領は日露首脳会談の後、安倍首相と首相公邸で開いた記者会見で、日本が1956年の「日ソ共同宣言」で四島返還を主張した背景にはアメリカからの圧力、 いわゆる「ダレスの恫喝」があったと発言します。

『.....当時のダレス米国務長官は日本を脅迫した。 もし日本が米国の利益を損なうようなことをすれば、沖縄は完全に米国の一部となるという趣旨のことを言った.....』、という内容です。

 いわゆる「ダレスの恫喝」と言われているものの概要は、

 「日ソ国交回復交渉において、歯舞、色丹の2島返還でソ連と妥結しようとした日本に、米国のダレス国務長官が、2島で妥結するなら米国は沖縄を返還しないと恫喝。   そこで日本がやむなく4島返還を主張せざるを得なくなり、北方領土問題は固定化された」、というものです。

 1956年、重光外相は第1次モスクワ交渉の帰路、ロンドンの米国大使館を訪ね、ダレス国務長官に日ソ交渉の経過を説明、国後・択捉をソ連領とせざるを得ないことを伝えます。

 このとき米国務長官のジョン・フォスター・ダレスは米ソ冷戦下で日ソが和解することは米国の不利益になると考え「もし国後、択捉をソ連に渡せば、沖縄は永久に戻ってこない。   沖縄をアメリカの領土とする」、云々といった話があったというのです。

 これは「ダレスの恫喝」と言われ、それ以降、日本は四島一括返還を要求する立場をとるようになったとされています。    ただ、この話は鳩山首相が重光外相の2島返還での妥結の請訓を拒否した後の話であり、2島返還でまとまりかけていた日本が、 「ダレスの恫喝」でもって4島返還論に転じたという主張は成り立たない、とする意見もあります。

 さらに、松本氏によれば、後日ダレス長官は、「むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものである」、ということを説明していたともされます。


第2次モスクワ交渉.....「日ソ共同宣言」

 1956年10月、鳩山一郎首相とブルガーニン首相によりモスクワで第2次モスクワ交渉が行われます。    ただ、この交渉前に日本側は領土問題を一旦棚上げし、まず戦争状態を終結させることと国交正常化を図るべきという方針を決めていたとされてます。

 河野農相はフルシチョフに対して非公式会談を要求。 3回目の会談で、ソ連は平和条約発効時に歯舞群島、色丹島を日本に引き渡すことに合意。    南千島(択捉島、国後島)については両国間の正常な外交関係が回復された後、平和条約締結交渉を継続するという形式で合意します。

 結局、『日ソ平和条約』は締結されず、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の「二島返還」で決着させようとするソ連側と、 国後島と択捉島を含む「四島返還」の継続協議を要求する日本側で妥協点が見出せないまま、『日ソ共同宣言』という形に落ち着きます。

 この日ソ共同宣言により、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。 ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」、 ということが確認できました。  この時点で、まずは2島は返す、という従来の落とし処までは両者でまとまったわけです。

 『日ソ共同宣言』における北方領土についての記述は、

「ソ連は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。 ただし、これらの諸島は、 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」、というものでした。

 つまり、『日ソ共同宣言』に従えば、北方領土は最大で歯舞群島及び色丹島の二島しか帰ってこない、という流れになるわけです。    しかし、この宣言は1993年10月の『東京宣言』で再び4島返還論が復活し振り出しに戻ることになります。  歴史というのは分かりません。

 『日ソ共同宣言』の骨子は、

 この内容であればほぼ平和条約と捉えられそうですが、唯一、領土問題に合意できなかったため両国の間で『日ソ平和条約』が締結されることはありませんでした。  日ロ間には領土問題の解決という課題が残されたのです。


北方領土交渉の停滞期

 1956年の『日ソ共同宣言』後、フルシチョフ政権は歯舞、色丹に入植していたロシア島民を国後島などに移住させ、一時は2島を直ぐにでも返還する準備に着手した時期もありました。

 しかし、ソ連側は1960年の日米安保条約の改定延長を受けて、日ソ共同宣言での取り決めを後退させ、その後1960年代から70年代にかけては日ソ関係も停滞します。    日本側も北方領土4島すべてを返還してもらえないかぎり、条約締結はできないとの立場を表明します。

 1970年代には日本で沖縄返還がなされたために、北方領土の返還へ期待が膨らみました。  ソ連側もちょうどこの時期に中国との関係が悪化していたため、 中国が日米に歩み寄ることを懸念して、再び日本とソ連の間には歩み寄りの動きが見られるようになります。

 しかし、1979年にはソ連によるアフガニスタン侵攻が原因となり、冷戦が悪化したため、日ソ間の対話は停滞の一途をたどることになります。


アメリカの北方領土問題介入

 1956年前後はまさに冷戦の渦中で、アメリカとソ連は互いに睨み合いを続けていました。 アメリカは日本とソ連が互いに歩み寄ったことを懸念し、 1956年9月に日本の外務省に向け、北方領土4島すべてが日本の主権下に置かれなければならないという覚書を送ります。

 アメリカが北方領土問題を持ち込ませることで、歩み寄ろうとする日本とソ連の間に、多少の緊張感が生じたのです。


領土交渉進展.....「四島一括返還論」復活

 1980年代後半、ゴルバチョフ書記長が「ペレストロイカ(政治改革)」を主張し、再び北方領土を両国の困難な問題として重要視するようになります。    日本とソ連の双方間で詳細で徹底的な対話が行われはじめます。

 その後1991年ソ連が崩壊し、ロシアでエリツィン政権が樹立されると新しい流れが生まれます。 経済的に大混乱の中にあるエリツィン大統領を支援しようと、 米国は日本・ドイツにロシアへの経済支援を要請します。

 しかし、日本は「領土問題があるから経済支援はできない」と突っぱねます。  そこで米国は日本・ロシア双方に経済支援の支障にならない程度に領土交渉を進展させるよう求めたという経緯がありました。

 1993年10月、細川護煕首相とエリツィン大統領が会談し、北方四島の島名を列挙した上で、北方領土問題をその帰属に関する問題を解決した上で平和条約を早期に締結する、 という日露共同文書『東京宣言』を交わします。

 日本はこの『東京宣言』の中に4島全ての名前を明記することに成功。 日本政府はこれをもとに『4島返還』を求めて交渉するスタンスを確立できたわけです。      これで少なくとも4島の帰属は日本であることをロシアに認めさせた上で平和条約を結ぶ、いう流れができたわけです。

 交渉取引は結果として互いがメリットがあるから成立します。 経済援助が喉から手が出るほど欲しかったロシアに、ここで押せ押せで交渉を加速させていけば、 北方領土問題はもしかしたら『4島返還』という方向で実現できた可能性があったのです。

 しかし、残念ながら連立内閣だった細川政権の政権基盤は安定せず、1994年4月に崩壊することになります。  おそらくここが『4島返還』の最後のチャンスだったのかもしれません。

 1998年4月には、橋本龍太郎総理とエリツィン大統領が静岡県・川奈で会談しましたが、結局合意には到りませんでした。


イルクーツク声明

 2000年のプーチン大統領の訪日以降においても、北方領土問題に関する日本・ロシア間の交渉は停滞し、突破口をさぐる状態が続きます。

 2001年3月25日、ロシアのシベリア地方に位置する都市イルクーツクで、森喜朗首相とプーチン大統領による会談が行われ、両国首脳は「イルクーツク声明」文書に署名しました。

 このイルクーツク声明では、1956年(昭和31年)に調印された日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、 1993年(平成5年)の『東京宣言』に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することに両首脳が合意したことが明記されています。

 とはいっても、中身はなんの進展も見られず、従来の互いの主張をただ踏襲しただけ、という結果に終わります。  むしろ、『東京宣言』よりも『日ソ共同宣言』段階へ大きく後退したともいえます。

 これには新聞各紙も、「依然隔たり大きい日ロ平和条約交渉」、「かすむ『領土』 日本苦渋 日露交渉進展せず」、などきびしい見方を示します。

 森政権が倒れたあと、続く小泉純一郎政権は、アメリカの圧力があったなどと言われますが、再び「四島一括返還」路線へ戻ることになります。


  

ロシア側の変化

 ロシアはかねてから、日露平和条約締結により、北方二島「譲渡」に応じるとしていますが、日露平和条約締結には、日米安全保障条約の破棄ならびに米軍を始めとする 全外国軍隊の日本からの撤退が第一条件となっており、二島「譲渡」は平和条約締結後、順を追って行う、としています。

 プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出します。    その結果、二島にあたる色丹島・歯舞群島はかつては無人島でしたが、近年になって移住者及び定住者の存在が確認されており、ロシア側の主張する二島「譲渡」論も困難な状況となっています。

 2014年のクリミア侵攻以降は、欧米各国から制裁を受けるようになり、本格的に経済的な困窮するようになり、ロシア側としても 日本との国交正常化を促進しようとする姿勢が活発化します。  しかし領土問題が切り離されているため、交渉は一向に進んでいないのが現状です。

 2016年、日本はロシアとの交渉にあたって、四島一括返還を前提にした領土問題の解決を図る事を明らかにしているが、ロシアがこれに応じる事は無いといった、悲観的な意見も少なくありません。


プーチン大統領と安倍首相の交渉

 2018年9月の東方経済フォーラムの場で、プーチン大統領は、『前提条件なしで年内に平和条約を締結しよう』と牽制します。    安倍首相は苦笑いでその場は終りましたが、プーチン大統領のこの発言により、近年は足踏み状態でなんら進展する様子が見えなかった『北方領土返還交渉』が、 多少なりとも動き出す兆しを見せたことは間違いありません。

 この発言についてはいろいろと取りざたされ、『4島返還』どころか『ゼロ・スタート』かと日本国内で批判の声も上がります。   ただ『前提条件なし....』というのが、過去の条約・宣言に縛られること無く、新たな枠組みを造ろうという前向きな話しを含むかもという期待もありますが、果たして......。

 その後、2018年11月14日、安倍首相は『1956年の日ソ共同宣言を基礎として、平和条約交渉を加速させる。 本日、そのことでプーチン大統領と合意した』と宣言します。

 安倍首相が日ソ共同宣言を基礎とすると明言したということは、長らく動かなかった問題が動き始めたということでもあります。 しかし、1956年の日ソ共同宣言には歯舞と色丹の二島しか明記されていません。   日本が拘ってきた『4島返還』の方針を切り捨て、『2島返還』へと舵を切ったことは、日本国内で賛否両論が巻き起こる事態となります。

 元北方4島住民からも、「これまで日本が堅持してきた4島返還の可能性をみずから放棄したに近い大転換」、という失望の声が上がります。


2島返還が現実的な落としどころか

 紆余曲折はありましたが、日本政府は1993年10月の『東京宣言』以降「四島返還」の姿勢は崩していませんでした。   ところが安倍首相は2018年11月、「日ソ共同宣言」を基礎に、歯舞・色丹の返還を求める姿勢へと変化します。 

 これには従来方針と大きく異なるものであるという反発も起こりましたが、しかし、過去、日本側の北方領土返還交渉は4島一括と強硬姿勢に出たり、 2島返還で折れる姿勢を見せたりと腰の定まらない交渉を続けてきました。  一方でロシア側は自国が経済危機にでもならない限りは一貫して2島返還という姿勢は堅持しています。

 現実問題として、戦争で負け実質的にロシア領とされてしまった北方領土を、このまま交渉によりロシアが4島全部を日本に返すことはまずあり得ません。     「戦争で失った領土は戦争で取り返すしかない」というのは歴史の事実です。  もし今回安倍首相が戦争に訴えることも無く、『2島返還』を成し遂げられたとしたら、 それはそれで一定の成果とも呼べることではあります。

 過去ロシア側は歯舞群島、色丹島に入植していたロシア島民を国後島などに移住させ、2島を直ぐにでも返還する準備に着手した時期もありました。    しかし現在では歯舞群島はその後も無人島のままだそうですが、色丹は今では3千人ともいわれる島民が住み、空港やゴミ処理場の建設も計画され近代化を進めているといいます。    中国の技術者も視察に来ているといいます。 このままでは返還へのハードルはますます高くなるでしょう。(2018.12.10)


返還交渉のラストチャンス?

 2018年現在、ロシアは、対米国、中国との関係が上手くいっていません。 日本との関係が大事であるからこそ、 ロシアとしても『北方領土返還交渉』が取引の材料となるわけです。

 ロシアが今後、対米国、中国との関係を好転させてしまえば、もうロシアは日本にスリ寄る必要はなくなります。 そうなったら『2島返還交渉』さえうやむやになり、またしても振り出しに戻る事態となるでしょう。

 そうなれば北方領土問題は遅々として進まず、その間ロシア人たちの移住はますます増加し、いよいよロシア領土として北方4島の存在感が高まります。  いずれ返還交渉は頓挫してしまうでしょう。

 手遅れになる前に、この際日露平和条約を締結して2島でもいいから返還を、という主張が出てくるのも仕方ないことです。     なにより、日本が4島返還に拘り続けるようであれば、北方4島返還交渉は戦争でも起こらない限り未来永劫ずっと現状のまま、という事態は十分考えられます。

 ただ、このまま『2島返還』で日本とロシアの間で平和条約が締結されたら、もうロシアは日本との対立を気にかける必要もなくなります。    そうなれば残り2島が返還される可能性はほぼ断たれることになるでしょう。 日本国民として『2島返還』はなかなか受け入れることは出来ませんが、 現実的な決断を下すときがいよいよ来たようです。(2018.12.3)


4島返還どころか2島の条件付き返還か

 2018年頃からプーチン大統領の支持率が急速に低下し、前年に比べ20%も減る事態となってきます。  こうした状況下で、実質的にロシア領土化している歯舞・色丹を日本に渡すことに、 果たして従来から返還に消極的なロシア国民がどう判断するかは疑問です。

 豪腕プーチン大統領の権力が及ぶあいだに、北方領土問題に決着をつけようという日本側の期待もありますが、「ロシアがかくも強気に出ているのは、安倍晋三首相が四島返還の原則から離れ、 日ソ共同宣言重視を打ち出したためだ。 これは『2島返還』への方針転換だと受け取られた」とする産経社説の声もあります。

 もともと米国と安全保障を結ぶ日本が、ロシアの目と鼻の先にある北方領土を手にしてしまえば、ロシアとしては自国の安全保障上好ましい状況ではなくなります。     北方領土問題は日ソ間の問題ではありますが、このような国際関係上の問題が複雑に絡み合っているわけです。

 領土交渉という取引は互いに高度な腹の探りあいと手練手管が要求されます。 今後考えられるシナリオは、2島返還を落とし処でまとまり、 交渉妥結に前のめり気味となる日本に対し、ロシア側がジラシ戦法を仕掛け有利な交渉へ誘導させてくることです。

 つまり、ロシアは歯舞群島、色丹島の2島をそっくり日本に引き渡した後は、ロシア側の2島への関与は一切失くす、という流れにさせず、一旦はゴネてなんらかの条件闘争に持っていき、 今後も2島の実質的な主権はロシア側に残ったままにする、という戦法を取ってくるはずです。

 安倍首相も難しい立場に立たされるわけですが、あせりは禁物という戦術で交渉を進める必要があります。 ナニセ敵は交渉巧者のロシア人ですから。(2018.12.3)

 

プーチン大統領の懸念

 プーチン大統領としても、もし2島なりを返還した場合、そこにアメリカ軍が展開する可能性について懸念があるはずです。    たしかに日本は地元の反対を押し切り沖縄のアメリカ軍基地を辺野古へ移設しようと強引に工事を進めています。 日本はイザとなると実力行使してくる国という心配があるわけです。

 プーチン大統領は12月20日の年末恒例会見でも、「平和条約締結後に何が起こるかわからない。(在日アメリカ軍の扱いについて日本からの)回答なしに、重要な決定をするのは非常に難しい」と述べました。

 沖縄の例を見ても仮に日本がアメリカ軍基地は北方領土に作らせないと約束しても、残念ながら今の日本にアメリカを説得するだけの外交力はありません。    それを守るという保証はないわけで、この点を考えれば、やはりロシアとしては領土返還するとしても、条件をつけてくるのは避けられないでしょう。

 北方領土を譲渡したら、後になってアメリカ軍が展開してきた、という悪夢がロシアから消えない限り、やはりはまだまだ北方領土返還の道は険しそうです。     二島返還なしの平和条約締結に終わる、という最悪のシナリオだけはなんとしても避けなければなりません。(2018.12.21)

 

尖閣諸島を「中国固有の領土」と主張する中国

 話しは横道にそれますが、中国は日本固有の領土である尖閣諸島を、「中国固有の領土」と主張し日本との間で領土問題にしようとしています。

 1949年に建国された中華人民共和国(中国)は、1970年以前まで、米国統治下の「琉球諸島」と「尖閣諸島」について、琉球諸島住民による返還自己決定が行われるように米国に要求していました。    『琉球諸島が日本に返還される場合には、尖閣諸島も日本に返還されるべき』、という米国と日本の立場に同意していたわけです。

 つまり、中国はこのとき「尖閣諸島」は中国領土であると宣言したわけでもなく、『尖閣諸島も日本に返還されるべき』、 という意志表示をして「尖閣諸島」が日本領土であることに異議を唱えなかったわけです。

 これまで国際司法裁判所は、島をめぐる紛争などに関するいくつかの判例において、「禁反言の一般原則を適用」しているといいます。   日本が「尖閣諸島返還」で動いていたとき、中国は座視して異を唱えなかったから、それは日本の領土と中国が認識していたはずだ。 それを今になって「尖閣諸島」は自分のものとは主張出来ない、 というわけです。

禁反言の法理」......一方の自己の言動(または表示)により他方がその事実を信用し、その事実を前提として行動(地位、利害関係を変更)した他方に対し、 それと矛盾した事実を主張することを禁ぜられる。

 いまさら尖閣を自国領土とする中国の主張は、国際司法裁判所規程にある「文明国が認めた法の一般原則」にそぐわない、というわけです。   ちなみに、琉球諸島の日本への返還交渉当時、中国は「尖閣諸島」とちゃんと日本の領土名で表現していたといいます。      中国が自国領土説の拠り所としていた、尖閣諸島を示す台湾名の「釣魚台」は、いまでは台湾東南部の「台東県の島」であり、 尖閣とは別の島である、というのが学説となっています。



⇒ページTOP


⇒サイトマップ

関連サイト


コトバ学
(*1).....ヤルタ協定(ヤルタ体制)

第二次世界大戦終盤の1945年2月4日から11日にかけ、当時のソ連ヤルタ近郊で行われた、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦による首脳会談。
ソ連の対日参戦とその条件 (ソ連への樺太南部の返還や千島列島の引渡しなど) についても秘密協定が作成された。

(*2).....



(*3).....





ランキング





こんなサイトもあります


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本


【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






関連サイト・バックナンバー