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日韓請求権協定の真実

 1965年(昭和40年)6月22日、佐藤栄作内閣と朴正煕大統領との間で、1910年に締結された 韓国併合条約の失効や、賠償問題、 さらに両国の外交関係の樹立などを取り決めた、 "日韓基本条約"がやっと締結されます。  それにより、日本統治時代の朝鮮に対する補償、 いわゆる「請求権」問題も、最終的に日本側が提供する「経済協力資金」を、韓国側が 「請求権資金」として受け取るという、 日本が大幅に譲歩した形で、戦後補償交渉はようやく合意したわけです。

 韓国に対する戦後補償問題は、日韓双方が激論を交わし、妥結するまで14年間もかけ、難産の末、日韓請求権協定 としてようやく解決したわけです。  ところが、現在ではこの正式に条約として結ばれた賠償について数多くの誤解と異説が横行しています。   よくある批判として「朴正煕政権が妥結を急ぐあまり、請求の一部しか貫徹できなかった」、「屈辱売国の外交だった」というものがあります。   35年間支配された韓国が受け取る賠償額の3億ドルは、たった3〜5年占領されただけの東南アジアの国々に比べてあまりにも少ない、というわけです。

 たしかに、占領期間が3年に過ぎないフィリピンは5億5,000万ドル(1980億円)、インドネシアは2億2,308万ドル(803億880万円)、ベトナムでさえ3,900万ドル(140億4000万円)を 日本から受け取ったのですから、単純に比較すればもっともな批判ではあります。(1ドル・360円換算)

 その後遺症なのか、戦後もそろそろ100年になろうかという今、韓国大法院は徴用工裁判において、日本に対する個人の請求権は消滅していないので、 日本企業は新たに賠償せよ、と命ずる仰天判決を下しています。  つまり、日本はきちんと賠償と補償をしていないのだから、 韓国はもっと請求する権利がある、という認識なのです。  これは韓国人の大部分もそう考えているはずですし、日本人の多くもこのような認識を抱いていると思われます。

 しかし、その考えは日韓の歴史と請求権問題を正しく認識していないための誤解であり、間違っています。 そもそも、 植民地支配されたわけではない韓国が、補償金として日本に請求できる金額は、それほど多くは無かったのです。(2024.2.22)


  

併合された韓国は日本の一部だった

 その理由は、「併合された韓国は日本の一部だったから」です。  たしかに、日本に支配された韓国は形の上では日本の植民地とされましたが、 日本はあくまで「国際法に則り列強諸国の承認を受け、朝鮮半島を日本の一部として併合統治」 したものであり、韓国は決して植民地支配被害国ではなかったのです。

 日本の一部となった日本統治時代の朝鮮半島には、日本の資金によって多くの学校や病院が建てられ、 農業や産業が振興整備され、食糧自給率は高まり、韓国の若者は大量に日本に留学させてもらい近代的経済システムを吸収していったのです。  さらに、朝鮮半島東海岸を中心に工業地帯が形成され、 多くの日本企業が進出していきました。

 当時の総督府が調査・製作した土地台帳と地籍図は、今も韓国が行おうとしているあらゆる土地行政の基礎資料として重宝されているといいます。  この費用に日本は当時で約2000万円、 現在の1兆円を費やしたとされます。  当時の弱小国は否応なく列強の植民地とされていた世界の中、 日本は朝鮮半島を隷属させる意図はなく、前近代的でまともな国家体制ではなかった朝鮮を日本の一部、 付属領土として朝鮮人全体を日本人として「自治州化」まで念頭に置いた 「一視同仁」策をとったのです。

 ところが、現代の韓国はそういう史実は隠蔽し、教科書にも堂々と「朝鮮全土の40%が総督府(朝鮮統治のため置かれた日本の官庁)の所有地として収奪された」として50年以上国民を反日洗脳してきました。  しかし、 これは韓国の学者たちが適当に作り出した数値です。    その証拠に、戦争が終わり日本併合期が終わったとき、韓国人は誰一人「自分の土地を返せ」などと訴えた人はいませんでした。

 土地台帳を保管している全国の群庁や裁判所のどこにおいても、そのような騒動や請願は起こらなかったのです。  それなのに、今の韓国の教科書には、土地だけではなく食料も、若い女性の性さえも収奪されたと書かれ、 日本人もそれを鵜呑みにしてきたのです。   李栄薫氏は、そのような嘘で塗り固められ世代間に憤りの涙で受け継がれてきたものこそ、 自身が批判する反日種族主義の歴史であるとしています。

 韓国が「日本に植民地支配されひどい目に遭った」という作り話をいくら持ち出そうが、 韓国近代化は日本におんぶにダッコで成し遂げた、という歴史は変わりません。     この歴史を理解せず日本の政治家でありながら「自身の偏狭な自虐史観」で日本を侵略国と決めつけ、 永遠の謝罪国家に陥れた左巻きの政治家がいますがトンデモナイ誤解なのです。

 安倍首相は『政治が歴史認識を確定させてはならない』と指摘しましたが、日本の政治家にはいまだに戦後の 「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 いわゆる「WGIP」に毒されたまま、戦後レジームからの脱却を阻害する勢力が多すぎます。(2024.2.22)


  

韓国は「植民地支配被害国」ではなかった

 占領期間が3年に過ぎないフィリピンが、賠償金として5億5,000万ドル(1980億円)受け取ったのに、なぜ35年間支配された韓国が受け取る金額が3億ドル(1080億円)だったのか、といった比較は無知のなせるわざです。

 日本国の一部として日本の統治下にあった韓国と、日本と連合国との戦火に巻き込まれたフィリピンなどの国とは、 戦後に賠償金として受け取れるお金の性格(額)が違う、というのは当然なのです。   占領期間と併合期間の年数だけをみて、単純に比較するから誤解が生じるわけです。

 日本軍と連合国軍のし烈な戦いで国土が甚大な損害を被ったフィリピンなどは、日本に占領された期間分の賠償金を受け取ったのです。   そもそも、 日本軍は現地の国を相手に戦ったわけではありません。  当時東南アジアを植民地支配 していた欧米列強と戦ったのであり、この戦いは植民地支配からの解放という 他国の発展に命をかけた戦いでもあり、 日本がアジア諸国に残した偉大な足跡は、 反日主義者たちの悪質なプロパガンダで隠蔽できるものではありません。

 それに対し、韓国(朝鮮半島)は日本に併合統治された35年間、白人列強による植民地支配を免れ戦禍とも無縁で、 日本の一部として様々な支援を受けていました。  韓国の名門・延世大学の教授・柳錫春(リュ・ソクチュン)氏は、 「韓国が発展したと認めるのなら、その理由が何なのか」、 「発展が天から落ちてきたのでなければ、発展の歴史的ルーツがなければならないのに、朴正煕でもなく李承晩でもないというなら、 植民地支配の時期にならざるを得ないのではないでしょうか」と指摘します。

 たしかに形としては韓国は日本の植民地ではありましたが、あくまで「日本に併合された」ものであり、それまでの欧米列強がアジア・アフリカ諸国に対して行った、 武力と恫喝によって一方的に搾取するだけの「植民地支配」とは全く異なるものでした。  もし韓国が、日本と戦った戦勝国か日本に武力占領された国だったら、もし韓国が植民地支配された国だったら、 日本にもっと大きな金額を請求することは可能だったでしょう。  しかし、当時の日本が行ったのは植民地化ではなく併合統治であり、 朝鮮半島は日本の一部だったので、いくら韓国が実質的に日本に植民地支配されていたと主張しても、韓国は賠償を受けられません。

 そもそも、国際法や国際関連に、植民地支配の被害に対する賠償のようなものはありません。  韓国がいくら植民地支配被害を主張し賠償を求めても、 それは不可能なのです。   近年では韓国の裁判所は韓国はもっと請求する権利があるとして、次々に日本企業に賠償を命じています。  この背景には「韓国は日本に植民地支配された」 という一方的な被害者意識があるのでしょう。   そもそも、もし植民地支配に対する賠償責任があるとされたら、世界中を植民地支配していた白人列強国は、たちまち破産してしまいます。

 そうはいっても、たしかに併合期間(植民地支配)のもとでは、不当な被害は少なからずあったことでしょう。   「三・一運動」や 「提岩里教会事件」などでも死傷者が出ていますし、 韓国内でも徴用や徴兵も発動されました。    それもあって、戦後の補償交渉においては、日本が朝鮮半島に残した52億ドル相当の財産は、返還要求しませんでしたし、最大でも7000万ドル程度にしかならなかった日本に対する補償金に対し、 日本は韓国に無償3億ドル(1080億円)を払い、さらに有償2億ドルを低金利で貸し出すことにしたわけです。

 その後日本の敗戦によって韓国は日本と分離されます。  連合国軍の占領下にあった日本は1951年に締結された連合国と日本の間の平和条約、 サンフランシスコ条約 によってやっと解放され主権が回復します。 日本の主権が回復されると、日本と韓国は国交正常化交渉を開始します。

 この正常化交渉過程では、 韓国側の「"日本による韓国併合"は武力による威嚇によって強要されたもので国際法上、正当な条約とは言えない」という主張と、 日本側の「植民地支配ではなく合法的な併合であるから賠償は必要ない」 という意見の激しい対立がありました。(2024.2.23)


  

サンフランシスコ条約が請求権交渉の枠を決定した

 この交渉は妥結するまで14年間もかかったわけですが、その要因として、当時「李承晩(イ・スンマン)ライン」内での日本漁船の拿捕(だほ)・漁民の抑留や、 北朝鮮への帰国事業など多くの課題もありましたが、 最大の障害は結局「日韓併合に対する評価の違い」でした。    日韓双方に言い分はあり、 この認識の相違はその後も平行線を辿ることになります。

 カギを握っていたのはサンフランシスコ条約の決定事項でした。  この条約により、 韓国は日本に対する戦勝国でもなく、日本の植民地被害国でもなく、日本の一部 だったが終戦で分離された地域であることが確認・決定されていました。  この韓国の国際法的地位が、その後の請求権交渉の枠を決定したわけですから、 このことは日韓の賠償交渉において非常に重要な事実です。

 サンフランシスコ条約で請求権交渉の枠が定められたことによって、日韓両国と国民の間で財産及び請求権を相互調整することになります。 つまり、韓国だけが請求権を持っていたわけではなく、 日本にも請求権があることを認められたのです。

 当時の大統領は日本海の公海上に一方的に 「李承晩ライン」と呼ばれる境界線を引いた 李承晩(りしょうばん)でした。  李承晩もサンフランシスコ条約の流れを知っていたので、被害賠償ではなく、財産返還に対する請求を計画します。  そして、 1951年秋、李承晩政権は日韓会談を前にして、それを対日八項目要求として整理します。(2024.2.23)

 
  

韓国側の対日八項目要求

   

韓国側の対日八項目要求
(1) 韓国から持ち出された古書籍、美術品、骨とう品、その他国宝、地図原版、地金、地銀の返還。
(2) 1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債務の返済。
(3) 1945年8月9日以降に韓国から振込、または送金された金員の返還。
(4) 1945年8月9日現在の韓国に本社または主たる事務所がある法人の日本にある財産の返還。
(5) 韓国法人または韓国自然人所有の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、その他請求権の弁済。
(6) 韓国法人または韓国自然人所有の日本法人の株式またはその証券の法的な認定。
(7) 前記の諸財産または請求権で生じた諸果実の返還。
(8) 前記の返還または決済は協定成立後即時開始し、遅くとも6ヵ月以内に終了すること。

《反日種族主義 日韓危機の根源より 李栄薫[編著]》

 8月9日は日本が降伏を内部的に決定した日ですが、その日を基準として韓国に本社や主な事務所のある会社が日本に持っていた財産を返還せとしています。   この対日八項目要求を見れば、韓国は併合期に受けた被害に対する賠償ではなく、 本来韓国に属する財産の返還を請求する内容となっています。

 日韓会談請求委員会の初会議で、韓国側代表・林松本(イム・ソンポン)は、《大韓民国は、三十六年間の日本の占領によって生じる 不快な過去の記憶により促される全ての請求権の充足を日本に対して要求する意図はなく、ただ、韓国に合法的に属し、そして将来の韓国の生存のために充足されなければならない 財産に対してだけ、その請求権を要求する。》と説明しています。(2024.2.24)


  

韓国が没収した日本人財産の返還を要求した日本

 韓国側との交渉において日本は、終戦により韓国が没収していた在韓日本人の財産に対する請求権を提起します。 「ハーグ陸戦法規」という国際法では、 交戦当事国間でも私有財産の没収は禁じられており、日本はそれに従い、韓国が請求権を行使するなら、韓国が没収した日本側の財産 を返還せよと要求したのです。

 アメリカは1942年、アメリカ内の日系住民(米国籍者と日本国籍者)12万人を強制収容所に送り、3年余り労働させ、事実上日本人の私有財産を没収しています。  この収容所に隔離された日系人の中から、 有名なアメリカ陸軍の日系部隊・第442歩兵連隊が生まれています。   1988年8月、レーガン大統領が、 強制収容した日系米国人に対する米政府の謝罪、 賠償金支払いを定めた「市民の自由法」について、「不当な人種差別だった」として署名、 「市民の自由法(強制収容補償法)」が成立しています。

 日本が朝鮮半島全域に残していった財産は、1946年の価値で52億ドルを超えており、この額は朝鮮半島の総財産の85%に達していました。   つまり、朝鮮半島の財産の大部分は日本のものだったのです。  そのうち22億ドルが現韓国側にあったとされ、その中には民間人の財産も相当ありました。

 朝鮮半島南(現韓国)にあったこの22億ドル相当の日本人財産は、終戦後の1945年末、米軍政が全て没収していました。    この財産を1948年に韓国政府は米軍政から受け取っていたのです。  朝鮮半島の北(現在の北朝鮮)に残した日本人財産については、 終戦後に侵攻してきたソ連軍が支配しており、米軍は手を出せませんでした。  こちらは運べるものは全てソ連軍が持ち去っていきました。

 サンフランシスコ条約の決定によって、韓国だけが請求権を持っていたわけではなく、日本にも請求権があることは認められていましたから、 日本は韓国に渡った財産を返還せよと主張したわけですが、これは当然の要求でした。

 これにより、もし日本の請求権が認定され、日本側請求権の金額が韓国側請求権の金額より大きい場合は、むしろ韓国側が日本に支払わなければなくなるわけですが、 日本側からすれば、この請求権の主張はサンフランシスコ条約の条項通りにしたまでのことでした。(2024.2.24)


  

オウンゴールした張勉政権

 反日基調の強い李承晩政権は、長年にわたり独裁政権体制で大規模な不正選挙を重ねてきましたが、1960年の大統領選挙の政府・与党の不正選挙に怒った学生・市民らが起した 四月革命により失脚し、張勉(チャン・ミョン)の民主党政権が成立します。

 張勉政権は新外交方針の一つとして《一日も早く対日外交を正常化する》、と表明します。  これを受け日本も素早く動き、9月には小坂善太郎外務大臣が訪韓します。 大韓民国建国後、 初めての日本からの公式使節団でした。

 以降、1960年10月から第五回会談が開かれ、7カ月間会談が進行します。  請求権、漁業権、在日韓国人の法的地位等、各分野別に実務レベルの会談も進行しました。  このうち請求権委員会は、過去と違って33回会議を重ね、 実質討議に入っていきます。

 この討議において日本は韓国に、《在韓日本人財産を韓国が取得したことを考慮し、請求権を調整してもらいたい》、と提案します。   これはアメリカの《戦前の日本人財産を取得したことで、韓国の請求権はある程度充足された》、という仲裁意見に基づいています。

 張勉政権の前の李承晩政権は、既に対日八項目請求権を要求していました。 このまま日本側の「調整、いわゆる相殺してもらいたい」という要求を受け入れた場合、 韓国はすでに在韓日本人財産を取得していましたから、両者の要求は相殺され、韓国の請求権の金額は実質ゼロになるか、至って少額になるしかありません。

 これに対し張勉政権は、《もともと我々は、植民地下の韓国人の苦痛、損害に対する賠償まで要求するつもりだったが、在韓日本人財産取得の事実を考慮し、八項目だけを要求した》、 という論理で対抗します。

 これは対日八項目要求を守るために作られた論理ですが、実はとてつもないオウンゴール(自らの失点)でした。 なぜなら、 これでは韓国側が在韓日本人の財産を取得したことによって、すでに植民地支配による苦痛と損害が賠償された、ということを自ら認めたことになるからです。(2024.2.23)


 

不利な立場に追い込まれた張勉政権

 張勉政権は日本に対し、《在韓日本人財産取得の事実を考慮し、八項目だけを要求する》、と宣言したわけですが、そもそも、その八項目というものについても、一つひとつ詰めていくと、 一般的な商取引だったり、日本の会社が本支店間で行った通常の取引などであり、もともと韓国政府が正当に日本に要求できる筋の内容のものではありませんでした。

 現に、会談では対日八項目請求の第五項目まで検討しましたが、個別項目に対し日本側を納得させるだけの根拠を提示できませんでした。  例えば、 第五項目の韓国の法人と個人の財産請求権に関連して、韓国側は被徴用生存者、負傷者、死亡者、行方不明者、軍人・軍属全体に対する補償を要求しました。

 日本が他の国の国民を強制的に徴用し、精神的、肉体的に苦痛を与えた事に対し、それに相当する補償をしろ、と要求したのです。

 それに対し日本側は、徴用当時韓国人は日本の国民であったため、生存者に対しては補償することはできず、負傷者、死亡者等に対してはすでに被害当時補償はなされている、と反撥します。

 また、韓国側が被徴用労務者の未収の給料と手当として2億4000万円を要求したのに対し、日本側がその算出の根拠を訊ねると、韓国側は答弁できませんでした。

 これでは、もし韓国側が要求した対日八項目請求権が、このまま日本側によって一つずつ論破された場合、日本から受け取れる額は、目も当てられないほど少なくしまったことでしょう。 また、 後に追加で独立祝賀金や経済援助資金も受け取っていますが、これを受け取ることも難しかったでしょう。

 劣勢に追い込まれた張勉政権でしたが、就任翌年には朴正煕(パク・チョンヒ)少将による軍事クーデター(5・16軍事クーデター)が発生し、 政権を追われることになりました。  たとえクーデターが起こらず会談が続いたとしても、 張勉政権の請求権の主張は日本側にいちいち反論されたことでしょう。(2024.2.26)


  

韓国にはもともと請求するものなどなかった

 第六回会談で、日本は韓国側の請求権主張(対日八項目要求)を一つひとつ反駁(はんばく)していきます。  たとえば、第五項の被徴用労務者の未収金に関して日本政府は、《...当然支給するが、 韓国側の要求した金額(2億4000万円)は重複集計(1億6000万円)されているので、それを減額しなければならない》、としました。  そうなると、労務者未収金は8000万円程度になります。

 また、被徴用者補償金と関連して、《...日本国民とのバランス上、生還者に対しての補償は不可能であり、死亡者と負傷者に対しては、 当時の国内法に従って補償金を支給した、未給付の場合は被徴用未収金に含んで支給する》、と回答します。

 このように韓国側の請求権主張を一つひとつ詰めていくと、朴正煕政権の7億ドルの主張に対し日本が認定する金額は、最大7000万ドルに過ぎませんでした。    これは韓国側が要求する額の1割にしかならない額です。

 結局、韓国は対日八項目要求を出してはみたものの、その中身は一般的な商取引だったり、日本の会社が本支店間で行った通常の取引などであり、 もともと韓国政府が日本に要求できる正当なものは、ほとんどなかったのです。

 これでは、たとえ対日八項目要求が認められ日本に請求できたとしても、韓国が没収した日本側財産はその何十倍もあり、その差額はとうてい韓国側が払えるものではありません。  そもそも、 経済的にも日本におんぶに抱っこだった韓国に、それほどの財産はありません。  このままでは韓国側としては絶対に受け入れられない内容となってしまうため、 会談は膠着状態となります。(2024.2.23)


  

請求権の「特別調整」

 これを打開するため、アメリカは仲裁意見をだします。  1952年4月29日付けで米国務長官アチソンは、《...韓国内の日本人財産は没収され、日本はその財産に対して何の権限の主張もできない》、 という答申をだします。 つまり、日本には請求権はないとしたのです。

 一方で、《...そのような処分は平和条約第4条(a)項が規定した両国間の特別調整とは関連がある》、としています。  これがもう少し明確に表現されたのが、1952年12月31日付けのアメリカ側の答申です。

 それによれば、在韓日本人財産の取得により韓国の対日請求権は「ある程度」充足されたとして、どの程度充足されたかは、日本と韓国が論議して決定するように、 というのがアメリカ側の勧告でした。  アメリカの意見は、日本は没収された在韓日本人財産に対する返還を要求できないが、それが韓国に帰属したことは考慮して両国間で請求権を 「特別調整」すべきだ、というわけです。

 要は、韓国側は日本のものだった十二分な額の財産は既に手に入れているし、それは日本に返さなくていいよ。 そのかわり、日本はその財産返還を諦めるのだから、韓国側もこれ以上請求額を釣り上げようなどと考えず、 この辺で交渉をまとめなさいヨ、とアドバイスしたわけです。

 アメリカ側がこうした仲裁意見を出したので、日本は朝鮮半島に残してきた膨大な財産をいさぎよくあきらめ、請求権主張を撤回します。  そして日本は韓国に、 対日請求権と日本の在韓財産請求権をお互い「特別調整」するよう要求します。

 韓国としても、莫大な日本人財産がそっくり自分のものになるわけですから、あとは韓国側の対日八項目要求を検討することとなります。  この大枠をもとにして実際に討議を始めたのは、 張勉(チャン・ミョン)政権時代の第五回会談からでした。(2024.2.23)


  

激しさを増す「日韓会談反対運動」

 張勉政権は就任翌年には朴正煕(パク・チョンヒ)少将による軍事クーデター(5・16軍事クーデター)により、 政権を追われました。  その後、1961年に誕生した朴正煕軍事政権との間で、討議が再開されます。  しかし、やはり請求権主張は日本側を納得させられず、 いちいち反駁(相手の主張に論じ返す)されます。

 さらに、朴正煕政権は1963年は民政委譲過程の混乱と大統領選挙のため、なかなか日韓会談は進捗させられませんでした。 その年の12月、民政(軍政ではない文官による政治)として再発足した朴正煕政権は、 本格的に日韓協定協議を推進します。

 すると今度は、野党となった過去の張勉政権の政治家たちが、本格的に日韓協定反対に立ち上がります。  軍事政権から民政となった国会が構成されると、 少数の野党も強力な抵抗と批判ができるようになったのです。

 1964年3月6日、4つの野党が「対日低姿勢外交反対汎国民闘争委員会」を結成し、9日にはこれに社会、宗教、文化団体の代表まで含んだ二百人余が「対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会」を結成して、 会談反対運動を組織的に展開。  彼らは日韓会談に「屈辱売国外交」というレッテルを貼りました。

 そして、この闘争委員会は日韓会談の即時中止、日本の反省、民族精気鼓吹をスローガンに掲げ、財産請求権15億ドルと賠償金12億ドルなど合わせて27億ドルと、「李承晩ライン」40海里専管水域を提示します。    この要求は自分達が民主党政権の時でさえ提起したこともない、日本が決して受け入れることのできない不合理な要求でした。(2024.2.26)


  

「私がすればロマンス、他人がすれば不倫」

 日韓協定反対を叫ぶこの勢力は、張勉政権時代には与党だった民主党ですが、彼らも政権を握っていたときには、《一日も早く対日外交を正常化する》として、 やはり日韓国交正常化を急いだことがありました。

 当時の張勉総理は、1961年1月1日付けの「東亜日報」で、年内に日韓国交正常化が必ずなされると強調し、むやみに日本政府や国民と感情的に対立するのは失策だ、 とまで発言していました。  それなのに、彼らは、野党になると政府の外交姿勢を「屈辱売国外交」と罵倒し、聞く耳も持たずに、やみくもに反対しているわけです。

 過去もっとも反日的だった文在寅大統領が見せた、「私がすればロマンス、 他人がすれば不倫」、とまったく同じであり、彼らが厚顔無恥と非難されるのも当然なのです。

 いまになって今度は日韓協定反対を主張し始めた彼らですが、政権が続いていれば、結局は朴正煕政権と同じ方式で日韓協定を締結していたはずです。

 1964年当時の朴正煕政権は経済開発に向ける外資が切実に必要でした。  さらに、「日韓基本条約」締結の背景には 「米国の事情」もありました。  しかし、野党は、自身の党利党略だけに固執し、 反日感情を扇動助長し、政府の正常な政策推進を妨げたのです。(2024.2.26)


  

両国間での最善の合意だった「経済協力資金」

 たとえ莫大な日本人財産をそっくり手にできるとしても、日本に35年間支配された韓国側としては、これまで7億ドルを要求し10年以上続けてきた請求権協定の交渉を、 正味わずか7000万ドル足らずの補償金で終わらせることはできません。

 この点については日本側も韓国側の心情を考慮しました。  結局、日本は朝鮮半島に残した莫大な財産の返還請求は放棄したうえ、韓国側の過少な請求権の金額 を埋め合わせるべく、経済援助することで日韓両国は合意します。  つまり、本来ならば日本は韓国側が要求する金額を賠償金として払う筋合いはないが、韓国側の事情も考慮し、 賠償金という名目には出来ないが、経済協力金という形にして、韓国側が満足できる金額をお支払いしましょう、としたわけです。

 その結果、1962年11月、大平正芳・金鍾泌(キム・ジョンピル)会談において、日本側が韓国に無償3億ドル(1080億円)を払い、さらに有償2億ドルを低金利で貸し出すことで決着しました。   名目上日本は「経済協力資金」という名の補償を行い、 韓国はそれを請求権資金として受け取る、ということにしたのです。  相違した両国の立場を折衷したわけです。

 このように、日韓間の請求権協定は、民事上の財産権と債権を相互に特別調整する交渉でした。  韓国側が提示した対日八項目要求にしても、 検討してみると韓国側が実際に日本に請求できるものはあまりありませんでした。  さらに、韓国側が約22億ドル相当の莫大な在韓日本人財産を既に取得していた 点も考慮しなければなりません。

 結局、請求権協定の交渉において韓国側が受け取れるのは、7000万ドルという少額の純請求権資金だけだったが、日本側としても韓国が手にしていた莫大な日本人財産の返還要求はあきらめたうえ、 さらに、この7000万ドルにプラスして遥かに高額の経済協力金の資金を加える、という方式で妥結したわけです。

 これは併合とはいえ朝鮮半島を35年間支配した日本側が、大幅に譲歩した形であり、両国間での最善の合意でもありました。   さらに、この合意は朴正煕政権が、李承晩-張勉政権以来の要求事項通り日本と交渉した結果でもありました。  決して屈辱売国外交の結果ではなかったのです。(2024.2.23)


  

徴用労務者の精神的被害問題

 請求権協定文第二条三項には、《今後日韓両国とその国民はいかなる請求権主張もできない》、と明確に規定しました。  また、韓国政府はこの協定で、 個人請求権が消滅したことを何度も明らかにしました。

 1965年7月に韓国政府は、大韓民国と日本国間の条約及び協定に関する解説書を出しました。  その本には、《財産及び請求権問題の解決に関する条項で消滅する我々の財産及び請求権の内容を見れば..... 被徴用者の未収金及び補償金に関する請求、韓国人の対日本政府及び日本国民に対する各種請求等が、完全にそして最終的に消滅する》、とあります。

 にもかかわらず、最近韓国の大法院は、完全な請求権整理の合意に反して、日本の企業がその徴用労務者の精神的被害に対し慰謝料を支払うよう判決を下しました。  請求権協定は財産上の債権債務だけを扱い、 「損害と苦痛」に伴う請求権問題は扱わなかったため、個人の請求権は有効だ、というのです。

 しかし、「個人の請求権問題は扱わなかった」という指摘は正しくありません。 張勉政権のときの第五回会談の席上、韓国側は《日本が他の国の国民を強制的に徴用し、 精神的苦痛を与えたことに対し、相当する補償をすべし》、と要求しています。  すなわち、負傷者や死亡者ではない生存帰還者に対する補償要求であり、 請求権会談において徴用労務者の精神的被害補償も論議されていたのです。

 これに対し日本側は、《日本政府は徴用後生還した日本人に対し補償をしなかった。 当時韓国人は日本の国民だったため 同じく生存者に対しては補償できない》、と韓国側の主張を拒否しました。

 朴正煕政権の時にもやはり、生還者一人当たり200ドルの補償金を要求しましたが、日本は同じ理由を挙げ拒否しています。  結果として徴用労務者の精神的被害補償は反映されないまま協定が結ばれたわけですが、 韓国側はそれを含め、最後は《今後日韓両国とその国民はいかなる請求権主張もできない》、《 個人請求権等も消滅した》、として合意したはずです。

 韓国大法院は当時のこのやりとりの一部だけを切り取り、徴用労務者の精神的被害問題は日本が反発したので引っ込めたものだと決めつけ、 だから新たに提起できるのだ、というリクツをつけているわけですが、「引っ込めたのは韓国側の意思」であり、とんでもない言いがかりなのです。(2024.2.24)


  

外れた日韓会談反対者たちの予言

 1965年3月27日、日韓会談反対者たちは、《日韓協定が成立すれば韓国は日本の支配を受けるようになる》、《日韓会談はこの国を亡ぼす大事だ。 日韓会談がなされると我々は即刻、 日本に政治的、経済的に隷属するだろう》、と批判します。  当時、韓国では多くの人が、日韓国交正常化後に日本の工業製品と企業が韓国を席巻するのではないか、と心配していました。

 しかし、国交が正常化したら、韓国は即刻日本に政治的、経済的に隷属させられるなどという、これほど自信のない敗北主義的態度が何処にあるでしょうか。

 ここにも、古代以来何百年にも渡り強大国家"シナ"の思惑に常に左右され、大きな影響を受け、 属国として扱われ自信を喪失してきた"黒歴史"が影響しているのでしょう。 中国は韓国にとって絶対支配王朝であり、 一歩退き敬ってきたものの、常に劣等感と脅威を抱いてきたわけです。

 1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約が正式調印されます。  翌日朴正煕大統領は日韓会談反対論者たちに反駁します。 《....我々の主体意識が健全であるなら、 日韓国交正常化は良い結果をもたらす。  日本の軍事的、経済的侵略を招く? そのような自信がなく、敗北意識と劣等感に囚われた卑屈な考えこそ屈辱的な姿勢だ》。

 この言葉通り、現在の韓国は経済発展を通して、いまや日本との格差は大差ないほど大幅に縮まっています。  国交正常化以降、日本が支払った無償3億ドルは10年間、1年に3000万ドルずつ入り、さらに日本の資本、 技術、設備、中間材を取り込んで組み立て加工したあと、アメリカに輸出する、日韓米の三角構造の貿易が発達していったのです。

 その後も、日本政府と企業の協力を得て、積極的に重化学工業化を推進。 現代重工業も日本の造船所からの技術学習に大いに助けられたのです。  日韓会談反対者たちは、 日韓国交が正常化すれば韓国は日本の政治的、経済的植民地になると予言しましたが、愚かさの至りに過ぎなかったわけです。(2024.2.26)


  

一切の請求権は完全に整理されている

 結論として、韓国は日本との国交正常化の話し合いを進める過程で、先決問題の一つとして請求問題を扱い、そのときは植民地支配の被害に対する補償または賠償は求めず、 韓国側財産の返還のみを要求する、と自ら決定していました。

 韓国が植民地支配による被害の賠償または補償は請求しないとした以上、日本に請求できるものは限られ大きな金額にはなりませんでしたが、 その分を日本側が協力金という形で補填する、という線で合意が成立し請求権協定が締結されました。  これは日韓間の最善の合意でした。

 日韓会談においては、その「植民地支配の被害については請求しない」という原則は守られ、やっと両者が合意したわけです。    これによって、《....被徴用者の未収金及び補償金に関する請求、韓国人の対日本政府及び日本国民に対する各種請求等が、 完全にそして最終的に消滅する》、と定められました。

 つまり、この協定締結によって、日本統治時代に韓国が被った各種補償問題は、両国間で《今後日韓両国とその国民はいかなる請求権主張もできない》と決定され、 戦後補償問題は両国間で完全に解決済みであることが正式に合意されたのです。

 韓国政府も「個人請求権が消滅した」ことは何度も明らかにしています。  したがって、日韓協定を破棄しない限り、 韓国は何か受け取っていないものがあるから、日本はもっと出さなければならない、などと主張することは二度と出来ません。

 韓国はその決定を韓国国会で批准同意しており、だからこそ、これまで歴代韓国政府はみなその約束を遵守してきたわけです。

 韓国人は、1965年の請求権協定により、日本との過去の始末がつけられたこと、過去史が清算されたことを認めなければなりません。   これがグローバル・スタンダードです。(2024.2.24)

《反日種族主義 日韓危機の根源 李栄薫[編著]より》


  

協定を破り覆した韓国の司法府

 徴用労務者の精神的被害問題なるものについても、当時の韓国政府が《....被徴用者の未収金及び補償金などの各種請求等が、 完全にそして最終的に消滅する》、としていたからには、本来であれば主張できる筋合いのものではないはずです。

 ところが、2017年、韓国大統領に「日韓関係を100年後退させた歴史の罪人・文在寅(ムン・ジェイン)」が誕生したことにより、 日韓関係は戦後最大の危機を迎えます。  この筋金入りのポピュリスト・強固な反日左翼の大統領は、「反日」を国内の支持に結びつける政治姿勢で日本と激しく対立。   日韓関係の要である「日韓基本条約合意」について、 《一度合意したからといって過去の問題が、すべて過ぎ去ったのだと終わらせることはできない》、 などというトンデモナイ理屈を持ち出し、韓国歴史の都合の良い“見直し”を推し進めます。

 その一つが「旧朝鮮半島出身労働者」が起こした「徴用工裁判」です。  文在寅大統領は 朴前大統領が保留していたこの裁判を推し進めるため、 最高裁判事の経験さえない、 韓国内でも小さい春川地方裁判所の所長だった金命洙(キム・ミョンス)氏を、イキナリ韓国最高裁長官の大法院長に抜擢するなど、 布石を着々と打ち、差し戻し審理へ繋げる手はずを整えます。

 そして、2018年、韓国の司法府は国家間で約束した協定を破り、これを覆したのです。  しかし、日韓両政府が長い期間をかけて合意し国民が同意し、 その後数十年間遵守してきた国家間の約束を、歴史の罪人・文在寅大統領の息のかかった、たった数人の裁判官が覆すのは、 はたして正当なことでしょうか。

 国際的な外交問題においては、司法府はそのようなことをしてはならない、という「司法自制の原則」が広く用いられています。  しかし、韓国の司法府はこのような行動を 「司法積極主義」と呼び、不当判決を連発する「無法国家」と化しているのです。

 2012年5月にも、韓国大法院(韓国最高裁)判事・金能煥(キムヌンファン)は、「国を再建する心情」という、法より情を優先させる韓国人的な 身勝手な理屈で、日本企業が賠償を支払うべきとしてソウル高等裁判所に差し戻す判決を下しています。

 これについて李栄薫氏は、 『....この言葉が、一国の法秩序と国家体制を守護すべき判事たる人の口から出てもよいものでしょうか。  私には納得できかねます。 彼にとってこの国の歴史は、"唾棄すべき不義と機会主義者が勢力を持った歴史”に過ぎなかったようです。』、と批判します。   この判決は国際法を逸脱した韓国司法の暴走であり、 韓国は法治国家とはほど遠い体制の国であることが改めて浮き彫りになったのです。(2024.2.28)


 

やっと開始された韓国政府による補償金支給

 1965年(昭和40年)の請求権協定により、韓国政府は日本側から請求権金額を一括受領したため、国内の個別の請求権者に対する補償金は、 韓国政府が支給しなければならなくなります。   朴正煕(パク・チョンヒ)政権は1966年2月、「請求権資金管理法(請求権資金の運用及び管理に関する法律)」を制定します。

 この法で、民間請求権は請求権資金の中で補償する、と規定しました。 つまり、これからは日本ではなく韓国側が補償していくとしたのです。    しかし関連法の制定が遅れ、実際の補償作業は相当に遅延します。  朴正煕政権は、まず対日民間請求権の申告を受け、次にその請求権者に補償するようにします。   申告対象者は持っていた証拠資料と共に申告し、証拠物を偽造するなど偽の申告をした場合は、刑事処罰されました。

 1971年5月31日から72年3月20日まで、10カ月間申告を受け付けたところ、財産関係9万7753件、人命関係1万1787件、総計10万9540件となります。  この結果は、想定した見通しどおりでした。   人命関係が1万1千余件にしかならなかったのは、強制動員被害者としては、軍人、軍属、労務者として動員された中の死亡者だけを申告対象にしたからでした。

 ただ、この生還者は何の補償も受けられないという方式は、後の盧武鉉政権に変わったとき、他人は貰えたのに自分は受け取れない、という不満を抱かせることとなります。  請求権補償法は1974年12月に制定され、 実際の補償金受領は1975〜77年に行われましたが、これは請求権協定後から10年が過ぎています。  民間請求権補償はこの請求権申告のうち受理されたものを対象にしました。

 財産関係申告者7万4967人に66憶1695万ウォンが支給され、被徴兵、被徴用死亡申告者1万1787人のうち8910人が最終受理され、8552人に一人当たり30万ウォンずつ、合わせて25億6560万ウォンが支給されました。   この30万ウォンは、当時、軍服務中に死亡した兵士や、対スパイ作戦で死亡した軍警察官に対する補償金水準に合わせたものです。  補償金の総額は91億8255万ウォンでした。

 被徴兵、被徴用死亡者に対する支給総額25億6560万ウォンは、請求権無償資金3億ドル(1974年のレート484ウォンを適用すると1452億ウォン)の1.8パーセントに過ぎなかった、 と朴正煕政権が日本から受け取った請求権補償金を横取りし国民に支給しなかったかのように批判する人がいます。 しかし、3億ドルの請求権無償資金全体が、すべて被徴用者の請求権資金となるわけではありません。

 請求権交渉の際、韓国側は被徴用労務者の未収の給料と手当として2億4000万円を要求しましたが、日本側はそのうち1億6000万円は二重に計上されており、8000万円に減額しなければならない、と主張しました。    解放当時のドル貨対比円貨レート(1ドル=15円)を適用すると、被徴用労務者未収金8000万円は500万ドルを少し上回ります。 これは請求権無償資金3億ドルの1.7パーセントです。

 この被徴用労務者未収金500万ドルの1974年ウォン貨換算額は24億2000万ウォンで、偶然にも被徴用死亡者補償金25億6560万ウォンと大方近い金額になります。 日本が認定した労務者未収金と同じ金額を被徴用死亡者に支給したとも言えますが、 もちろん被徴用労務者未収金と被徴用死亡者補償金は全く別の範疇のもので、被徴用死亡者が被徴用労務者未収金を貰う根拠はありません。(2024.3.4)


 

盧武鉉政権の強制動員被害者支援事業

 朴正煕政権が対象者に支給した民間請求権補償金額は、合わせて91億8255万ウォンで、日本から受け取った請求権無償資金3億ドルの6.3パーセントにしかなりませんが、 これも朴正煕政権が民間のお金を着服したわけではなく、請求権を持ついくつかの金融機関、朝興銀行、韓国産業銀行、農協、漁協、金融組合連合会など 国有金融機関に対しては補償しないことにしたからです。

 朴正煕政権が戦時動員関連負傷者や行方不明者のような、死亡者以外の被害者は補償をうけることができない、としたことについては、批判され続けました。  このため、 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の2004年に強制動員被害真相究明法が制定され、政府委員会が2005年2月から被害補償に先立ち真相調査活動を始めます。

 そして、軍人、軍属、労務者、慰安婦などにわたって22万8千余人の被害申告を受け付けました。  被害調査が行われた後、補償金や慰労金の支給が開始されます。   2007年12月には国外強制動員犠牲者などについての支援法が制定されます。   2010年3月には、真相究明法、犠牲者支援法を統合した「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援に関する特別法」が制定されます。

 これにより、犠牲者として、死亡者と行方不明者には一人当たり2000万ウォン、負傷者には一人当たり最高2000万ウォンの慰労金が支給されました。   1975〜77年に補償金が支給されていた死亡者に対しては、234万ウォン(30万ウォンの2010年現在の価値換算額)が控除されました。  未収金については1円あたり2000ウォンずつを 未収金支援金として支給し、生存者に対しては医療支援金が支給されました。

 この調査では1970年代に認定された8千500余件の2倍を超える1万7780件の死亡・行方不明が認定されます。   これにより、死亡者と行方不明者に対する慰労金3600億ウォン、負傷・障碍者に対する慰労金1022憶ウォン、 未収金支援金523憶ウォンなど、合わせて6184憶ウォンの支給が決定され、2015年末には6009億ウォンが支給されました。  このほかにも政府委員会の人件費と行政費として、 合わせて1739憶ウォンが使われ、合わせて7748億ウォンという巨額を費やした大事業でした。

 調査作業の結果、動員被害者が申告時提出した各種の写真、通知書、給与明細書などから、新たに多くの動員の客観的実情が判明しました。 委員会は多くの調査報告書と写真集を出しています。(2024.3.4)


 

被害者支援事業の重大な過ち

 この大判振る舞いともいうべき韓国政府の支援事業は、決して見逃せない重大な過ちを犯しました。  まず、満州事変以後、日本や海外の日本占領地に行った軍人、軍属、労務者、 慰安婦らをみな強制動員された者と規定しました。  また、陸海軍特別志願兵、学徒兵、徴兵などを通して動員された軍兵士も被害者としたのです。

 しかし、1944年9月に朝鮮人徴用制が実施される前は、労務者は募集と管斡旋、いわば自分の意思で行ったものです。 その募集と管斡旋の過程で強い勧誘があったとしても、 基本的には朝鮮人労働者たちのほとんどは、自分の意志で働きに行った「応募工」であり、 誰からも強制されてはいません。

 それなのに、盧武鉉政権のこの事業は、それらを皆強制動員だったとすることによって、日帝による戦時動員の被害を大きく膨らませたのです。  同様に、 朝鮮人兵士の中には陸軍特別志願兵制に従い自発的に応募した者も多かったのですが、これらもみな強制動員被害者としています。  そうしながらも、将校として行った人は強制動員被害者とはみなしませんでした。

 これで1930年代以降の全ての労働移動、軍事動員は、たとえ自発的な応募であろうが、韓国内ではみな強制動員と呼ぶしかなくなりました。    これはもう一つの歴史歪曲と言えるでしょう。

 2つ目の過ちは、被害者支援に際しての、誰かは重複支援し、誰かは支援しないという公平性からの逸脱です。  軍人、軍属、労務者で解放前に死亡した人が、 死亡補償金をきちんと受け取っているケースもたくさんありました。   死亡補償金とは労務者の場合、遺族扶助料、団体生命保険、退職手当、預金、成果金、積立金、債券などを言います。

 この死亡者のうち8500余人が、すでに1970年代に補償金を受け取っていたのです。  つまり同じ一つの事態に対し、この人たちは日本政府と企業、 韓国政府の二か所から、補償金を受け取ったということです。  ところが、2000年代になっても、またしても韓国政府が慰労金の名目でお金を支給したのです。  被害者と見なされたら、二重、三重どころか、 五重、十重でも補償を受け取ることができるというのは、はたして理にかなったことなのでしょうか。

 その一方で、被害者でありながら補償が受けられない人もいました。 1975年の朴正煕政権では民間請求権補償では負傷者は最初から対象ではない、とされていました。   日本から無償3億ドルの補償金を受け取っておきながら、朴正煕政権は日本の軍人として参戦し負傷した人への補償金を、きちんと支給しなかったのです。(2024.3.4)


 

大法院が開けた「際限のない被害補償要求の道」

 三つ目の過ちは、新たに「際限のない被害補償要求の道」を開いたことです。   日本に行った労務者のうち無事に帰ってきた、いわゆる生還者は、盧武鉉政権のとき初めて医療費扶助を受けた以外は、 何の補償も受けられませんでした。  たとえ自分の意思で行ったとはいえ、他人は貰えたのに、自分は受け取れないとなれば、当然彼らは不満を抱いたでしょう。

 彼らの一部は、日本の企業に強制動員された被害に対する補償を求め裁判を起こしますが、2003年日本の最高裁はこの訴えを却下しています。   日本側とすれば請求権問題はすでに解決済みとされているのですから当然でした。   すると彼らは2005年から 韓国の裁判所で訴訟を起こします。

 その結果、韓国の大法院は2012年に続き、筋金入り反日大統領・文在寅(ムン・ジェイン)大統領により2018年にも、 労務者のうち「無事」に生還したものに対しても、日本は精神的被害への慰謝料を支給せよ、という仰天の判決を下したのです。

 しかし、1965年に請求権協定が結ばれ、韓国政府も「日本に対する個人請求権が消滅」したことで同意し、今後は《韓国は何か受け取っていないものがあるから、日本はもっと出さなければならない、 などと主張することは二度と出来ない》と約束していたはずです。  それなのに、大法院は個人の対日請求権は消滅していない、というちゃぶ台返しの判決を下したわけで、 これは完全な不当判決です。

 こんな法を無視する裁判が成立するなら、これから韓国人は死亡者、負傷者、生還者を問わず、みな慰謝料請求権を持つようになるということです。  これでは、 たとえ本人が死亡したとしても、今度はその遺族が慰謝料請求訴訟を起こすことなってしまいますが、 大法院はそれも認めるのでしょうか。

 韓国政府が支給した死亡者慰労金は一人当たり2000万ウォンですが、今回の生還者の慰謝料に対する判決額は1億ウォンです。  生還者が死亡者の何倍も受け取れるなら、今度は死亡者遺族が不満を持つことになり、 慰謝料として何億ウォンずつか貰われなければならない、と死亡者遺族は思うようになるでしょう。

 もし死亡・行方不明者と認定された2万人近い人たちの遺族がみな訴訟を起こし、5億ウォンずつ支給せよという判決が出たとしたら、合わせて10兆ウォンです。  それ以外の負傷・障害者・未収金及び医療支援金受給者など、 委員会から被害者と認定された人たちを加えれば、対象者は7万2千余人です。  これらの人々に平均2億ウォンずつ支給せよという判決が出されたら、合わせて14兆ウォンです。

 被害者が訴えれば、何度でも、何重でも補償を受け取ることができる、などというこんなデタラメな裁判がまかり通ったら最後、韓国では皆 日本企業を相手に個別訴訟を起こしはじめ、韓国人たちは夜が開け日が暮れるまでこの訴訟騒動で大騒ぎになるでしょう。     この大法院の判決によって実際に日本企業の財産差し押さえが始まりましたが、こうなっては両国政府次元の交渉で解決される見込みはほとんどありません。(2024.3.4)


 

たった数人の裁判官が韓国を無法国家にしている

 これで完全に日韓関係は最悪の関係となりました。  このままでは、日本は国家間で成立した条約に従い、既に補償金を支払っているにもかかわらず、 これからも未来永劫、韓国へ賠償金を払い続ける、 「謝罪国家」にされてしまうでしょう。

 一連の被害補償要求裁判においては、韓国裁判所にしては真っ当な判決も下されています。    ソウル中央地裁のキム・ヤンホ裁判長は、《...韓国の日本に対する請求権問題は、1965年に締結された日韓請求権協定において、 「(補償問題は)完全かつ最終的に解決された」と明記されているので、(今回の訴訟はその請求権の)適用対象となる》と指摘。

 そのうえで、日韓請求権協定の交渉過程や条約法に関するウィーン条約を根拠に、《原告の訴えを却下する》、とした判決が出ていました。 しかし、 歴史の罪人・文在寅大統領の息のかかった、 「法より情」を優先させ 国際ルールを破ってもなんら問題視しない、たった数人の大法院裁判官たちにより、 韓国司法は暴走しているのです。

 《元徴用工問題の核心・原因は韓国にある》のは間違いない事実です。    こんな愚かな結果を招いた文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、 学生運動出身の左派である首席秘書官を法務部部長(法務相)に起用する人事を進め、 法務省、裁判所、検察庁のトップすべてを左派で固めるなどして、 日本に歴史戦を挑みましたが、まさに「日韓関係を100年後退させた歴史の罪人」なのです。

 前成均館大学校名誉教授(経済学)の李大根(イ・テグン)氏は、《文在寅政権は歴史問題や経済摩擦で反日ムードを煽り、国民を結集させてきた》 としています。   日韓の戦後処理がなかなか終らない原因として、韓国に国家としての責任感が欠乏していることもありますが、さらにコジらせているのが、 反日運動に名を借りたハイエナのような市民団体が、 「日本の戦争責任」をネタに虎視眈々と金儲けを企てていることです。

 日本は罪を犯したのだから、何を要求してもいいのだ、というのが現在の韓国人の国民感情だとされます。  『反日種族主義―日韓危機の根源』の著者・李栄薫(イ・ヨンフン)氏は、 これこそ反日種族主義に伴う誤解と偏見によるものだとしています。

 朝鮮戦争では、韓国だけで100万人が死亡し、負傷者も100万人を超えましたが、その相手国北朝鮮に対し、ただの1ウォンでも賠償や補償を要求していないのにもかかわらず、 日本に対しては地の果てまで追って行って賠償請求を繰り返す韓国。     李栄薫氏は、「遥かに大きな被害を与えた北朝鮮に対しては一言も発せられないというのは正常なことでしょうか? これでいいのでしょうか?」としています。(2024.3.6)

  内容は、《反日種族主義 日韓危機の根源 李栄薫[編著] 文春文庫》に基づいています。




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