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日本がアジア諸国に残した偉大な足跡

 2016(平成28)年1月末、当時の天皇皇后両陛下がフィリピンを公式訪問しますが、日本のマスコミは「フィリピン側の民間人犠牲者の数は111万人」と、まるで日本軍がフィリピンを攻撃して、 大量の民間人犠牲者が出たかのような印象を与える報道を行います。  しかし、実際に現地の住民を殺戮したのはアメリカ軍であり、 日本軍はフィリピンを防衛した国です。   フィリピン共和国が独立を果たしたのは1946年ですが、その独立を物心両面で支えたのは日本軍なのです。

 ただ、その日本は、日本を再び敗戦国にした政治家たち によって、なかなか「敗戦国の立場から抜け出せない」でいます。    愚かにも、わざわざ中韓にサンフランシスコ講和条約に上乗せする条件を申し出て、 そして喜んで支払うと約束したのです。

 閑話休題。  フィリピン大学歴史学教授のレティシア・R・コンスタンティーノ氏は、『...東アジアに対する日本の進出はいろいろな意味で開放的な力を振るったのである。   日本帝国軍隊が香港、ビルマ、インドネシア、インドといった西側帝国主義の要塞を陥落させた素早さは、それまで白人は不敗と考えていた諸民族を驚愕させた』 としています。

 フィリピンにおける戦いは大東亜戦争の激戦区で、日本軍戦没者の数は、ルソン島20万人を筆頭に、51万人という海外最多の犠牲者を出しましたが、日本はアジア各国の民に民族自決の精神を育み、 さらに具体的な軍事教練を日本軍が施し、アジア諸国の独立を強力に援助したのです。

 アメリカは 1898年に始まった米西戦争において、スペインに植民地支配されていたフィリピンに対し、戦争勝利の暁には独立させると約束してスペイン軍を襲わせますが、 アメリカはその裏でスペインと講和条約を結んでおり、フィリピンは二千万ドルの代償でスペインからアメリカ領に移されることが明記されていました。   一応軍事目的を達成したフィリピンは、革命政府(第一次フィリピン共和国)を樹立しましたが、アメリカはフィリピンの建国を認めないばかりか、自国の植民地にしようとしたのです。    これにフィリピン人の独立派は猛烈に抵抗、その後アメリカ軍と戦うことになったのです(米比戦争)。

 米軍現地司令官マッカーサーは、米軍兵が殺害された報復として、サマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じ、 これにより少なくとも10万人が殺されたとされます。  1902年5月5日付けの『ニューヨークジャーナル』には、フィリピン人を銃殺しようとする米兵の背後に「10歳以上の者は皆殺し(KILL EVERY ONE OVER TEN)」 と書かれた記事も掲載されています。   1902年7月、アメリカはフィリピン人による傀儡政権を作って米比戦争を終わらせますが、ルソン島の人口約350万人のうち、約60万がアメリカ軍に殺戮されたのです。

 たしかに日本軍はフィリピンに進攻しましたが、戦った相手はフィリピン独立軍ではなく、フィリピンを植民地支配していたアメリカ軍です。   フィリピン人に対して 非情な攻撃を行い111万を無慈悲に殺戮したのは、アメリカ側であり、日本軍ではないのです。   アメリカは広島・長崎に原爆を投下し、日本各地の都市を無差別絨毯爆撃して 大勢の罪のない一般市民を虐殺しましたが、フィリピンにおいても民間人大虐殺を行っているのです。     「先の戦争は日本が悪い」としか見ない日本のマスコミは、 そこを隠蔽しているのです。(2024.6.2《英国人記者が見抜いた戦後史の正体・ヘンリー・S・ストークス》引用)


 

インドネシア独立に貢献した日本軍

 インドネシアは、350年間に渡りオランダに植民地支配されていましたが、1942年(昭和17年)1月、 堀内中佐指揮の日本軍初の落下傘部隊が、オランダの領有するインドネシアのセレベス島北部、 メナドに降下しオランダ軍を降伏させています。  その後、日本軍はインドネシアにPETA(郷土防衛義勇軍)という組織を創設させます。

 堀内海軍大佐はオランダの支配下にあえいでいた過酷な生活から現地の人を解放し、住民が驚くほどの大幅な減税を行います。  さらに、 メナドにおいて捕虜にしたインドネシア兵を短期間のうち釈放し、 現地では貴重品だった食塩を分け与え、製塩技術を教えます。  また投降してきたオランダ軍将兵に対する暴行も禁じます。

 堀内司令はインドネシア人に自由と独立の精神を説き、風紀、軍紀は厳正を保ち、女性や子供が安心して外出できる街にします。 次の任地バリ島でも住民尊重の軍政を敷き、 堀内軍政の評判の良さは内地まで知れ渡ったといいます。

 日本の敗戦直後の1945年8月17日、インドネシアは長年の悲願だった独立を宣言します。   この独立の日は「05年8月17日」とされますが、「05」というのは、 神武天皇即位の「紀元」から数えた年号(皇紀)でいうと、西暦1945年は皇紀2605年にあたります。  つまり、インドネシアは自国独立の推進力となった日本に感謝し、 皇紀を採用したのです。

 ただ、一旦は日本軍によって追い払われたオランダは、これを黙って見過ごすはずはありません。  日本の敗戦を受け、インドネシアを再び植民地化しようと軍事侵攻してきたのです。 しかし、350年前とは違い、 インドネシアは日本軍に鍛えられたPETAが中心となり、激しく抵抗します。  日本は戦前・戦中、油田のあるインドネシアに航空兵養成のため多数の初期練習機を運び込んでおり、 これが大いに役に立ちます。   日本軍から訓練を受けていたPETAは、日本機であることを隠すため日の丸はカムフラージュし、爆撃装置がない練習機から手づかみで爆弾を落とすなど懸命に戦います。  その「インドネシア独立軍練習機」は、 今もジャカルタの軍事博物館に展示されています。

 また、戦いには武器が必要ですが、降伏していた日本軍は公式には武器を供給できなかったため、奪われたふり、置き忘れたふりをして、密かに武器を提供しました。  また、 多くの日本兵が日本の降伏後インドネシアに留まり、共に独立のために戦っています。  「カリバタ英雄墓地」には、そのインドネシア独立戦争に身を投じ犠牲 となった大勢の日本兵たちが眠っています。

 インドネシアは1949年12月、主権がオランダからインドネシア連邦共和国に委譲されましたが、ここにも、インドネシア人たちに対し、軍事訓練や組織運営を通じ 高い戦闘能力と強い精神力を身に着けさせた日本軍の存在がありました。   また、日本降伏後ベトナムにもフランスが軍事侵攻しましたが、多くの日本兵がベトナムに残り、ベトナム人と共にフランス軍と戦い、 ベトナム独立の一翼を担ったのです。(2024.6.3)


 

インド独立をイギリスに認めさせた日本

 インドは1947(昭和22)年8月15日、200年に渡った植民地支配から脱し、独立を勝ち取ります。  日本の降伏後、インドでも反イギリス戦争が行われINA(インド国民軍)の兵士たちが反逆罪に問われる裁判が行われますが、 インド側の弁護団長を務めたデサイ博士は、『...日本軍がインド国民軍を編成して、武器をとって進軍させてくれた。  この進軍がインド全土における国民運動につながり、イギリスに独立を認めさせる契機となった。    インド独立をもたらしたのは、日本軍である』と語っています。  インドも他のアジア諸国同様、日本に多大な恩義を感じているのです。  中韓・反日のたわ言に惑わされてはいけません。

 イギリスによるインドの植民地化は、1600年の東インド会社の設立とともに始まり、その後は着々と支配地域を広げ1877年にはインド全土をイギリスが直接統治するインド帝国が成立しています。     インドは他のアジア各国と違い、反イギリス民族闘争がたびたび起こりますが、有名なのが1857〜1859年に起きた「セポイの反乱」です。

 インド独立の指導者としてマハトラ・ガンジーチャンドラ・ボースがいますが、ガンジーが「無抵抗主義」を貫いたのとは対照的に、 ボースは力には力で対抗する姿勢を取り、日本軍が支援したのはボースでした。    ボースは反英のドイツ・ヒトラーとも会見し、インド独立支援の立場を表明するよう要請しますが、同じ白人で有色人種を見下すヒトラーは 「インドの独立にはあと150年かかる」と突き放します。   ヒトラーにはインドの独立など眼中になかったのです。

 しかし、同じアジアの国である日本は違いました。  1942(昭和17)年、東条英機はシンガポール陥落後「イギリスの暴虐なる圧制下から脱して、大東亜共栄圏に参加すべきだ」としています。  1943(昭和18)年、 日本の支援で訪れたボースは日比谷公会堂の壇上で、『....日本はインドの仇敵であるイギリスに対して宣戦布告した。 日本は我々インド人に対して、独立のための千載一遇の機会を与えてくれた。   我々はそれを自覚し、心から感謝している....』とスピーチしています。

 1943(昭和18)年10月、ボースを首班とする自由インド仮政府が樹立されます。 同年10月26日、自由インド仮政府は、イギリスを含む連合国に対し宣戦布告。  1944(昭和19)年3月、インド軍と日本軍は、 インド・ビルマ国境を越えインパールを目指したのです。  ボースは、「われらの国旗をデリーのレッド・フォードに掲げよ」と将兵を激励します。

 1943(昭和18)年11月に開催された「大東亜会議」では、満場一致で「もう欧米列強の圧制に屈しない」 とした大東亜共同宣言が採択されましたが、この時点では、有色人種による「アジア人のためのアジア」という崇高な理想を実現しようとした大東亜会議は史上初でした。   このサミット開催も、人種差別撤廃・人種平等の扉をついに開いたという、日本史の輝かしい1ページです。   まだインドは独立を果たしていませんでしたが、 オブザーバーとして参加したボースは、「この宣言がアジア諸民族ならず、全世界にわたる被抑圧民族の憲章となることを願う」と訴えました。

 結局、日本は敗れましたが、ボースはあきらめず作戦の途中で事故死しましたが、その志は引き継がれインド独立へと結びついたのです。  その後インドではインド統治権のインドへの返還、 イギリス人の引き揚げを求める抗議運動が激化していきます。  イギリスは1946年2月7日、「対日戦勝祝賀パレード」を行う計画を立てますが、当日全戸には弔旗が掲げられ、商店・工場は全て休みとなり、 なかには手製の日章旗を振るインド人もいたそうです。  「対日戦勝利」はインド人にとっては、祝福するものではなく悼むものだったのです。(2024.6.3)




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関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


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YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


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