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日本人は無宗教?

 キリスト教でもイスラム教でもない日本人はよく、「私は無宗教です」などとと口にします。   自分もその一人ですが、 でも実家の玄関には「浄土真宗」という札が張られており、すでにその宗派のお寺の檀家になって(させられて)います。  そして、お葬式や先祖の供養では自動的(?)にそこにお世話になっています。

 つまり、日本人は意識しなくても、いつのまにか先祖代々どこかの宗派の一員にされているわけですが、これは江戸時代に確立された檀家制度の名残とされます。   どうしてこの制度ができたのかといえば、現代人のイメージだと、お寺やお坊さんというのは、争いごととは無縁の平和主義者と思っているわけですが、実は織田信長が登場するまでは、日本の寺社勢力は、 神仏の霊威と僧兵の武力を笠に着て、朝廷にまで要求を突き付けるなど、ある意味国家から独立した武力集団でした。(「誤解」の日本史 井沢元彦)

 さらに宗派間の争いごとが頻発し、宗教テロが多発していました。  それを信長が焼き討ちという形で強制的に終わらせたのです。  その後の秀吉、家康も、 寺社勢力に対し一切の武力を持つのを厳禁とし、寺社側もそれを受け入れ、現在の武力とは無縁の宗派の形になったのです。

 家康はこれをもう一歩進め、すべての寺院は本山の意向を厳守するようにし、その本山は幕府が統制することにします。  もう一つが檀家制度です。  これは全ての日本国民はどこかの寺の檀家でなければならない、としたのです。  さらにお坊さんや信徒(檀家)が、勝手に改宗することを禁止しています。

 宗教というものは、宗教戦争で見られるように、基本的に非常に危険な要素をはらんでいますが、家康は国家が宗教勢力を統制下に置き、 宗教戦争や宗教テロを防止しようとしたわけです。  こうした幕府の宗教政策により、それ以降、日本国内では暴力による仏教宗派間の争いや競争は一切なくなったのです。

 ちなみに、仏教というと先祖供養や怨霊鎮魂というイメージを我々は抱いていますが、そもそもこういったものは仏教にはなかったとされます。   日本に入ってきた仏教が、 怨霊信仰に影響され変質したという歴史があったわけです。 (2024.8.31)


 

「聖徳太子信仰」の時代変遷

 家康が行った寺院勢力を幕府が統制する政策に翻弄され、反逆者扱いされたのが、日本史の中で重要な人物、冠位十二階十七条憲法を定めるなど、 天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図り、仏教を厚く信仰して興隆に努めた、ワレラが「聖徳太子」です。    日本の仏教においては聖徳太子自体が尊崇の対象となっています。(聖徳太子信仰)

 聖徳太子の逸話で有名なのが、中国全土を統一した隋に、『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙(つつが)無きや』という国書を渡したことです。   当時の世界の強国・隋を恐れず、『独立国家として中国と対等につきあうゾ』 と対等の言葉づかいで手紙を出したというのですから、今の政治家に聖徳太子の爪の垢(では勿体ないので)、その何万分の一でも飲ませたいものです。  日本国の自立は聖徳太子によって達成されたといえます。

 ところが、寺社勢力の弱体化を図った江戸時代以降、「聖徳太子不信仰」の動きが活発化していきます。  聖徳太子は不当な中傷攻撃にさらされ、没後千年で、 その功績は反仏教勢力により否定されてしまうのです。    この背景にあったのが、徳川期の政教分離政策だったわけです。 (裏の日本史 国民の知らない歴史2 古川愛哲)     信長や秀吉は武装した仏教勢力と戦い、かなりの辛酸を舐めてやっとの思いで武装解除させ、宗教テロを平定したわけですが、 もともと「聖徳太子」は仏教興隆のためには武力闘争も辞さなかった武闘派でもありました。

 家康による天下統一以降、林羅山が家康のイデオローグ(理論的唱導者)として召し出されてから、朱子学は徳川幕藩体制の教学となり、 朱子学の羽がついた儒学が盛んになります。  もともと、仏教勢力を幕府の統制下においた江戸時代初期から、天皇を殺した馬子を太子は放置した という声が上がっていましたが、羅山は太子と馬子は同罪だと明確に批判したのです。     それ以降、荻生徂徠、藤田東湖といった徳川期の知識人たちは、「聖徳太子不信仰」の論陣を張っていったわけです。

 そもそも、君臣・親子などの結びつきといった現実生活の秩序を重んじる儒学を教学とする徳川幕府にすれば、聖徳太子を信仰し出家を勧める仏教は、 人間が社会的存在であること自体を否定する許しがたい妄説であり、儒学にとって「相容れない存在」でもありました。

 反太子派の急先鋒徂徠にいたっては、太子と蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋の後裔を自負していた人物であり、太子に怨み骨髄だったわけで、 飛鳥時代の敵(かたき)を江戸時代に晴らすという思いだったのでしょう。  また、国学の大成者本居宣長は、儒学や仏教を中国渡来の「さからしごと(ずる賢い教え)」と排しており、 こちらも太子には快くない感情を抱いていたとされます。  さらに、 国学を足がかりに独自の思想体系「平田神道」を生み出した平田篤胤も、「厩戸皇子、天皇を殺す」と太子に強烈な批判を浴びせています。(2024.8.31)


 

「聖徳太子」を消し去ろうとする反日勢力

 この時代の仏教とは、儒学者にとっては合理主義から外れた邪教であり、国学者からすれば日本古来の道を踏み外した邪教だったわけです。  かくして、江戸時代の僧侶たちが懸命に「聖徳太子信仰」を売り込めば売り込むほど、 儒学・国学を絶対視する知識人の間では「太子不信仰」ともいうべき否定論が流行していきます。    つまり、聖徳太子は没後千年の「徳川の時代」になってから突然、仏教を真向から否定する勢力によって、 ポロクソにけなされて批判され始めた、という歴史があるわけです。

 そして没後1400年の今、日本史教科書には「厩戸王(聖徳太子)」と記され、 聖徳太子という名前は歴史から抹殺されようとしています。   教科書のみならず、歴史学者にも頑なに「聖徳太子」ではなく「厩戸皇子」 で通している勢力がいます。  まあ、そういう勢力が教科書から「聖徳太子」を削除しようとしているわけですが。

 「聖徳太子」の名称は、「厩戸王」死去129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出とされ、平安時代以降の史書には「厩戸王」という呼び名ではなく、 「聖徳太子」という名称で記載されています。     「厩戸皇子」は立派な皇子であり仏教の理解者で人徳溢れる人だったからこそ、後世の人々はその業績を讃え、没後「聖徳」という 最もすぐれた知恵、高徳を備えた人物という称号をつけるようになったのでしょう。

 当時の人々からすれば「厩戸皇子」は日本史上最も偉大な人物だったと評価したからこそ、 「聖徳太子」と呼ぶようになったわけです。  「厩戸王」の業績を認めるなら、「歴史上の超人・聖徳太子はいない」という理屈は成り立ちません。    一方、「聖徳」の「徳」には、怨霊信仰の鎮魂という側面もあったという説もあります。  井沢元彦氏によれば「」の字は 「無念の死を遂げた怨霊に贈られた専用の字」ともしています。

 いずれにせよ、現代人が勝手に、「聖徳太子」という名前は後からつけられた、とか「聖徳太子」は江戸時代の儒学思想によって徹底的にこき下ろされたから、 「厩戸皇子」は実在していたけど、「聖徳太子という名称は消し去ろう」、「亡き者にしよう」というのは乱暴すぎます。   そもそも存命中に〇〇天皇などとは呼ばれないように、古代から死後にその名前が正式に付けられるものであって、実在していた時に「聖徳太子」とは呼ばれないのは当然なのです。

 平安時代の評価は間違いで、江戸時代の評価が正しい現代の評価が正確であるなどということはないはずです。   そもそも、 聖徳太子に散々言いがかりをつけていた徳川の時代でさえ、その名前まで消し去ろうなどとはしていません。  それを21世紀に突如、歴史から、教科書から、「聖徳太子」の名称を抹殺 しようとする不届きな勢力が現れたのです。

 この勢力は、千数百年以上前に日本で唯一「聖徳」という称号で讃えられてきた人物への配慮を欠くどころか、ギネスブックにも登録されている 現存する世界最古の国家日本という国の、伝統ある歴史を全否定し破壊したい反日主義者たちなのでしょう。(2024.9.11)


 

織田信長の贈り物

 世界では宗教の違いによるテロや戦争が繰り広げられてきましたが、幸いなことに織田信長の偉大な功績のお蔭で、日本には信長治世以降は宗教テロなどというものは根絶しました。     作家の塩野七生氏は、「織田信長が日本人にした最大の贈り物はこれだ」としています。

 井沢元彦氏は、日本人が無宗教のようになった理由は、江戸時代に確立された檀家制度によって、個人が自分の信仰や宗教について 一切考えなくてもいい時代が続いた背景があったから、としています。

 日本人は寛容な民族とされますが、それは「自分の宗教は正しく、相手の宗教は間違っている。 だから相手を殺してもいい」という、 宗教について回る排他性とは無縁の社会が永く続いてきたことも関係しているのでしょう。

 我々は自動的に仏教のどこかの宗派の一員とされてきたわけですが、明治になって信仰の自由が解禁されますが、だからといって大慌てで別宗派に鞍替えしたとか、 キリスト教やイスラム教に走るといった動きは起こりませんでした。

 信長の功績によって我々日本人は、もはやどの宗派に属しているか、などという話で揉めることはほぼ無くなっていたわけです。  そのおかげなのか、我々は正月は神社に参拝し、 クリスマスはキリスト生誕をお祝いし、結婚式はキリスト教徒っぽく振る舞い、死後は自動的(?)に先祖代々のお墓(菩提寺)に入ることに何の違和感も感じません。

 まさに、融通無碍(ゆうずうむげ・考え方や行動などに何も障害がなく、のびのびと自由に対応できる)の宗教観であり、特定宗教の呪縛から解放されている日本人は、この宗教スタイルが一番性に合っているのかもしれません。

 国家から独立した武力集団だった寺社勢力を、いまのような穏やかな宗教団体に変革させた信長については、比叡山を焼き払った罰当たりで残虐非道な人物であり、政治家として認められない、 などとというだいぶ偏向した意見があります。  以降、その背景について見ていきます。(2024.8.31)


 

寺社は独立した武力集団だった

 かつての日本の寺社勢力は、金融業や運送業、商業を幅広く行い、関所を作っては流通税をとる、というように独自の経済基盤を構築し日本経済を牛耳っていたとされます。     神仏の霊威と僧兵の武力を笠に着て、朝廷にまで要求を突き付けるなど、ある意味国家から独立した武力集団だったのです。

 どうして寺社勢力がそういう立場になれたかというと、醤油や紙、油、建築資材といった当時最先端の製造方法を中国や朝鮮から持ち帰ったのは僧たちであり、 それらを独占して製造・販売する許可書を庶民に与え、パテント料を徴収するなど手広くビジネスを展開していたからです。  寺社は日本経済を牛耳り大儲けして強大な力を手にしていたのです。

 また利益を守るため僧兵という軍隊も持っており、誰かが無許可で醤油を作っていたりすると、僧兵集団を差し向け制裁を加え、寡占状態を維持しました。   彼らが寡占的に市場を支配しているため、値段はどんどんつり上がり庶民の暮らしを圧迫していたのです。

 現代の日本人は何事も話し合いで解決したがる民族ですが、当時は自分が所属する宗派の利益を守るためには、坊さんからして武器を手にして相手を殺戮するのが当たり前の、 狂信的イスラム教徒とさほど変わらない宗教テロが横行していた、食うか食われるかの恐ろしい社会だったのです。  そこに現れた救世主が織田信長でした。

 信長は楽市楽座により、物品の製造販売に対する許可制を廃止し独占を禁止し、関所を廃止するなど寺社の権益を徹底的に奪ったのです。    規制緩和どころか規制撤廃したわけですが、これにより物価は下がり、 信長は庶民から大喝采を浴びます。   当然、メシのタネを取り上げられた寺社勢力は大激怒します。

 いつの世も、改革するということは抵抗勢力と手を組むか、もしくは徹底排除しなければなりません。   旧来の既得特権を手放そうとしない寺社勢力と信長との戦いは、 避けられない運命だったのです。  さらに、寺社勢力は信長と対立する戦国武将と手を組みます。  結局、信長はこの抵抗勢力とも戦わなければなりませんでした。(2024.9.1)


 

日本の宗教派同士の戦い

 歴史的に天台宗も法華宗(日蓮宗)も、「妙法蓮華経」こそ最高の教えを説いたお経としていましたが、天台宗のほうは「出家主義」をとっていました。    つまり、修行に励み漢文で書かれた法華経経典を読み身に着けることで、仏教において究極の目標とされる境地、悟りを開き、仏になれるというわけです。

 しかし、これでは字も読めない庶民が同様の境地にたどり着くことは叶いません。  そこで日蓮は、法華経の正式なタイトル(題目)の「妙法蓮華経」に、 これに帰依しますという意味の「南無」を頭につけて、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経...」と口にすれば、 それだけで法華経の教えの功徳にあずかれると教えたのです。 つまり、お題目を唱えるだけでいいとしたのです。    たちまちこの教えは日本全国に爆発的に広がっていきます。

 そのため、当時は京都の狭い洛中の中に、二十一もの法華宗の寺院が立ち並びます。  逆に天台宗は京都がおひざ元だったのですが、信者のシェアを法華宗に盗られてしまったのです。    そもそも天台宗からすれば、教義とは教えの根本であり、それを変えられるのは仏様だけなのに、日蓮が「題目を唱えるだけでいい」と「教義の変更」をおこなったのですから、 激怒するのも当然でした。

 ちなみに、日蓮宗だけが宗派の頭に個人名が付いているわけですが、その理由は日蓮宗信徒からすれば、日蓮様は法華経に登場する四人の菩薩の筆頭、 上行菩薩の生まれ変わりなのだから、当然日蓮は教義を変えられるし、信徒たちは日蓮自体を信仰の対象としたので日蓮宗と呼んだわけです。  一方、天台宗からすれば、 あいつらの言ってることは邪教だ、ということになります。

 宗教間の争いの根源は、「自分たちの宗教は正しく、相手の宗教は邪教であり間違っている。 だから相手を殺してもいい」というものです。   まさにそこが宗教戦争の恐ろしさでもあります。  この天台宗と法華宗(日蓮宗)の対立は、天文5年(1536年)に武力衝突(天文法華の乱)へと発展していくことになるのですが、 その前の天文元年(1532年)には、日蓮宗と浄土真宗本願寺が武力衝突を起こしています。

 阿弥陀如来一仏を本尊とする浄土真宗・親鸞の一派は、阿弥陀仏への帰依を表明する定型句「南無阿弥陀仏」が正しいとしているわけですが、 「妙法蓮華経」を最高のお経としている日蓮宗からすれば、浄土真宗は邪教となります。  当時浄土真宗本願寺は京都山科にありましたが、そこへ日蓮宗が焼き討ちをかけたのです。   「自分だけが正しい」と信じ切って「他は絶対認めない」のが宗教戦争なのです。

 山科本願寺は無防備だったため敗れてしまい、その後大阪石山に移転しています。  そのとき「二度とこの過ちは繰り返すまい」ということで、 戦国最強の城ともいえる石山本願寺を築いたのです。  現在の本願寺は京都に移り東西に分かれています。(2024.9.1)


 

「天文法華の乱」

 天文5年(1536年)7月22日、戦国時代の京都において、比叡山延暦寺側と法華宗側が戦闘状態となり、延暦寺側が四条口より攻め入って火を放ち、法華宗の21ヶ所ある寺の内、本圀寺が焼け落ちます。    これはちょうど信長が生まれた頃の出来事に起こった、いわば宗教同士の内ゲバであり「天文法華の乱」と呼ばれています。

 実は、比叡山延暦寺側は法華宗側を攻撃する前に、四年前に法華宗側から焼き討ちをかけられた浄土真宗本願寺に、「一緒に戦おう」と声をかけています。    ただ、本願寺側はこれを断っています。   このように、宗派同士が、互いに血で血を争う宗教戦争が繰り返されていたのが当時の宗派の実態だったのです。

 この戦いでは、延暦寺側は諸国の末寺から集めた数万にものぼる僧兵を東山の山麓に布陣。  その北にも布陣し京都の北・東を完全に遮断します。  比叡山延暦寺は一大武力集団であり、 後に信長によって焼け落とされますが、いわば戦国大名勢力の一つでした。  対する法華宗も2〜3万の宗徒により、洛中やその周辺での防備を固めます。   これはもはや寺社同士の争いというより、戦国武将同士の合戦であり、これが当時の宗教派閥間闘争の姿だったのです。    お坊さんは大人しくお経をあげている、というイメージとはほど遠かったのです。

 この戦いで京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。  法華宗側の戦死者は1万ともいわれ、兵火による被害規模は応仁の乱を上回るとされます。  この戦い以降、 法華衆徒は洛外に追放され以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となります。

 「天文法華の乱」の原因は宗教論争という名目ではありますが、実際は商売敵同士のつぶし合いがエスカレートしていって、殺し合いになったということです。   相手を亡ぼすまで徹底的に粛滅するのが宗教戦争の恐ろしさなのです。  信長が比叡山を焼き討ちしたの残酷非道だ、 と言う声がありますが、当時は宗派同士もっと血なまぐさい争いを繰り広げていたのです。(2024.9.1)


 

信長の比叡山焼き討ちの真相

 元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長軍が現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺を攻撃し、延暦寺の伽藍を焼き払うという事件が起こります。  比叡山を焼き討ちした信長については、 「お坊さんを虐殺したとんでもない極悪人だ」というイメージが一般的ですが、井沢氏によれば「...それは本末転倒の議論であって、 信長が焼き討ちした比叡山というのは武装集団で、比叡山のやっているのは自分たちの宗教の勢力を拡大することが目的だ」としています。

 近年の研究では、明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他はこの焼き打ち以前に廃絶していたものが大半だったという説が出ています。     さらに、信長の攻撃時には僧侶の多くは坂本周辺に下っており、大量虐殺が行われ全山が火の海になり、僧侶男女3000人が首を斬られたという説は、 誇張が過ぎるのではないかという指摘もあります。

 そもそも、焼き討ち当時の比叡山は堕落しきっていたとされ、いまでは比叡山側への同情論はさほどではなくなっています。  『信長公記』では 「...天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」としていますから、寺社が武力を背景に経済はおろか、 信長と対立する武将たちまで牛耳り、やりたい放題だったというのが真相なのでしょう。  御仏の教えを守る仏教徒、などというイメージとはほど遠かったのです。

 天台宗大僧正、小林隆彰氏は、「...若し、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。  焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。  物に酔い、 権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。  山の規則を改め、修学に精進したのである」としています。(Wikipedia)

 井沢元彦氏が(「誤解」の日本史)で指摘しているように、信長の行動には「仏法を説く事を忘れた、うつつを抜かす教団に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す側面もあった」わけです。(2024.9.1)


 

信長の本願寺との戦い「石山合戦」

 元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて、織田信長は石山本願寺に篭った本願寺法主の顕如・浄土真宗本願寺勢力と戦っています。    当時の本願寺勢力は戦国時代最大の宗教的武装勢力であり、この争いは「石山合戦」と呼ばれ、天下布武(天下泰平の世を創る)を目指す織田信長と寺社勢力の 軍事的・政治的最終決戦でもありました。

 この戦いは一般的には信長の方から先に本願寺に戦争を仕掛けたと思われていますが、先に戦争を仕掛けてきたのは本願寺側であり、信長に奇襲攻撃をかけてきたのです。    それでも信長は本願寺との争いは避けようと、停戦を呼び掛けたり、朝廷の停戦調停に応じて講和を結んだりしていました。  にもかかわらず、 本願寺は講和を破り攻撃を仕掛けてきたのです。

 石山合戦の終結と同時に、各地の一向一揆はその勢いを著しく失っていきます。  また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなったのです。     石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになります。(2024.8.31)


 

信長は「宗教弾圧」などしていない

 「宗教弾圧」というのは、徳川幕府が行ったキリスト教禁教令のような、「その宗教を信じる者は死刑に処す、 あるいは追放する」という過激なものです。  ところが、信長は自分に逆らう宗教的権威は壊滅させましたが、宗派の存続まで拒絶 するようなことは、後にも先にも一切していません。

 11年にも及んだ「石山合戦」は本願寺の石山撤去という形で収束しますが、そのときの講和条件は現在に残っており、それによれば 「これまで信長軍に敵対した罪は一切問わない」、「本願寺及び属する全国の寺々はそのまま存続してよい」としています。

 比叡山延暦寺の場合も、天台宗は壊滅状態となり、信長がその気になればもう一押しで完全に消滅したはずでした。  しかし、信長はそんなことはせず、 現代でも比叡山延暦寺は世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして有名観光地になっています。   信長は決して「宗教弾圧」などしていなかったのです。

 「信長ぎらい」の人々は信長は比叡山を焼き払い一向一揆で大虐殺したから、信長の行動が限度を超えているから、嫌いだとしているわけです。  藤沢周平氏も嫌いになった理由を 「...信長が行った殺戮ひとつをあげれば足りるように思う...」としています。

 これに対し井沢元彦氏は「すでにお亡くなりになった先輩作家に対して誠に恐縮ではあるが...認識不足と誤解がある...」としています。  その理由は今まで見てきたとおり、 当時の「話し合いより戦争の時代」では宗教勢力同士が自分たちの利益のため、生き残るため、殺し殺されていたわけで、信長だけが責められるような世界ではなかった、 という時代背景を知る必要があります。

 最大の違いは、信長には、宗教勢力の武装解除を行い、その数々の利権を剥奪し、日本をより良い住みやすい国にするという目的がありました。 ところが、 もともと我こそ正義、他は邪魔者、という宗教勢力は、自分達さえ栄えればいいとして、庶民の生活を圧迫し、金もうけに走り、対立宗派を抹殺する宗教テロに明け暮れていたのです。

 警察も裁判所も法律もなかった時代、他は邪魔者というエゴイズムに支配された武力を持つ狂気集団を屈服させるには、武力で殲滅するしか道はなかったわけで、 歴史に対する認識不足と誤解が「信長を無信仰の殺戮者」に仕立て、信長のイメージを貶めてきたのです。

 近年では比叡山は焼き打ち以前に大部分廃絶していたことなど、比叡山焼き討ちの真相も徐々に明らかにされつつあります。  いずれ信長が行った宗教政策が見直され、 認識不足と誤解が解かれ、信長の真意を全ての日本人が理解する日が来ることでしょう。(2024.8.31)


日本が宗教弾圧せざるを得なかった背景

 異教徒を弾圧したのは日本だけと思い込んでいる人たちがいますが、それはトンデモナイ思い違いです。   昔のヨーロッパでは、カトリックの教義と違っているという理由だけで、 容赦なく死罪となる時代が永く続き、宗教裁判で死刑になり教会に財産を没収された人は10万人以上ともされています。   イタリアやスペインでは1781年まで宗教裁判による死刑が行われていたのです。

 中世のヨーロッパはカトリック教会の力があまりに大きかったため、自然科学の研究がカトリックの教理と違えば、容赦なく焼き殺されていた時代でした。   コペルニクスの地動説を支持したジョルダーノ・プルーノは、関ケ原の合戦があった1600年に火あぶりとなっています。    ちなみに、ガリレオも地動説を支持しましたが、社会的地位が高かったため投獄だけですんでいます。

 これまで、日本のキリスト教弾圧は地上最大の悪事のような批判を受けてきましたが、もしその時代に日本人がイタリアやスペインで仏教を布教しようとしたら、 即逮捕され死刑となったでしょう。    当時のキリスト教は信仰の自由どころか、自分たちの考えに異を唱えたら最期、たちまち殺されてしまうトンデモナイ宗教だったのです。

 このような宗教の危険性を見抜いた秀吉やその後の徳川幕府は、キリスト教布教活動を制限したわけですが、 こんな残酷な宗教の侵入を食い止めようと努力した当時の権力者を、単純に「日本はキリシタン弾圧をした」、「宗教の自由を侵害した」、 という視点だけで一方的に責め立て批判するようでは、物事の本質は見えてきません。(2018.9.10)


 

キリスト教勢力の危険性を見抜いた秀吉

 安土桃山時代(1568〜1603前後)以降、日本を訪れたスペインやポルトガルの宣教師(バテレン)たちは、母国領土拡大の目的で日本中にキリスト教勢力を広げようとします。

 当初、豊臣秀吉はキリスト教の布教活動には寛大で、大規模な迫害など行わず、黙認という形をとっており、宣教師たちは日本で活動を続けられ、 キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はなかったともいわれます。      ところが、都周辺での活動を自粛していたイエズス会に対して、やがて新進のスペイン系修道会・フランシスコ会の活発な活動が秀吉の目につく様になります。

 そして、とうとう日本各地でキリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われ僧侶が迫害されたり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されてしまう、 いう事件が相次いで起こるようになります。     さらに、キリシタン大名が硝石1樽と引き換えに女性50人を奴隷としてイエズス会に売り大金を稼いだとか、 ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られるなどの事例も次々に発覚します。

 それでも秀吉はキリスト教布教を即禁止という手段はとらず、キリスト教は神社仏閣と仲良くし、奴隷売買もやめるよう10年かけて説得しています。    決して秀吉は最初からバリバリの宗教迫害を行ったわけではなかったのです。

 しかし、一向に事態の改善が見られませんでした。   ようやくキリスト教の危険性に気づいた秀吉は、とうとう邪宗としてバテレン追放令を発布することになります。   そして、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、26人(日本26聖人)を処刑するという惨劇が起こってしまいます。

 秀吉やその後の徳川幕府は、キリスト教布教活動を制限することで、外国勢力により日本が植民地化されることを未然に防いだとも言えます。     もちろん宗教の自由は尊重されねばなりませんが、日本も先人たちの叡智で国内に無軌道にキリスト教を広げなかったからこそ、 世界各地で繰り広げられてきた「宗教紛争」とは無縁の今の暮らしがあるともいえます。

 ちなみに、当時の日本人は、他の有色人種国と違って姿・形だけで相手に服従し阿る民族ではなかったのです。 「南蛮人」という呼び名は、当時の人が南から来た野蛮人という意味もあって名付けたもので、 単純に白人を有難がる現代人より よっぽど相手の本質を捉える力があったようです。  なにせ南蛮人たちはロクに風呂にも入らず、部屋を土足で歩き回るのですから.........

 最近、日本政府は「長い弾圧の歴史がある長崎の教会群と26聖人を世界遺産に」と言い出しました。  2018年6月、「大浦天主堂」(長崎市)、 島原の乱でキリシタン農民らが立てこもった「原城跡」(南島原市)など12件が、 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。

 「(2世紀以上にわたる)禁教期にもかかわらず、ひそかに信仰を継続した潜伏キリシタンの独特の文化的伝統の証拠」、という評価からの登録だそうですが、 過去の布教の歴史を知ると興味深いものがあります。(2018.11.16)


宣教師は植民地化侵略の先遣隊だった

 時の権力者にとって重要なのは、大衆には常に自分に忠誠を誓わせておかねばならない、という部分です。    したがって自らの教義に反するような教えをする宗教は、権力者には厄介な存在となり、さらに狂信的な行動に走るようになれば絶対的な立場が脅かされる危険も出てきます。

 宗教の存在は国家に大きな影響を与えます。 信者は自分が信仰した宗教のために死ぬことを恐れません。 過去の宗教戦争の歴史が示すように、自分の命を捨てる決意をした人は他人の命を奪う抵抗感は薄れます。  どの宗教にも本質的な危険性は潜んでいるのです。 だから指導者は自分の意に沿わない宗教を恐れるのです。

 昔から異民族を支配しようとするとき、被支配民族の分断を図る常套手段が"改宗"というやり方です。   日本人は宗教というとなにやら神聖で犯してはならない正しいもの、 というイメージを持ちますが、昔のキリスト教はカトリック教会の宣教師たちがスペインによる南米侵略の先遣隊となっていたように、 昔のキリスト教は母国領土拡大の目的で世界中に勢力を広げようとしていたのです。

 キリスト教をバックボーンとする侵略者たちは、口では愛だなんだと言っておきながら、現地の人々を隷属化し植民地化した後は、その国に侵略者たちのキリスト教会が入っていき、 現地が教化されるという形は、世界中のいろいろな国で見ることができます。   世界中で起きてきた紛争の根の大部分は、宗教上の争いが絡んでいることは、 しっかり理解しておく必要があります。

 スペインやポルトガルは、当初日本に対しても征服や植民地化を検討したとされますが、結局貿易で利益を得るほうが得策と判断したようで、比較的穏便な活動に終始したといわれます。     しかし、当時日本で布教活動した宣教師達は、有色人種に対する蔑視感情から日本人司祭を認めませんでした。  ローマ教皇庁も、隠れキリシタンの殉教や忍耐を称える一方で、 日本人をキリスト教徒とは最近まで認めていなかったのです。  後に26人はカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、 「日本二十六聖人」と呼ばれることになりました。(2018.11.16)


宗教紛争

 多民族国家ユーゴスラヴィアで長く続いた内乱も、オスマン・トルコによる占領・支配がもたらした対立と憎悪が元となっています。  ボスニア・ヘルツェゴビナ地方では、 カトリックとセルビア正教の双方から異端の邪教として迫害されていたボゴミル教徒を、イスラム教に改宗させトルコによる支配のお先棒を担がせたといわれます。(稲垣武「悪魔祓い」の戦後史)

 ミャンマーは9割が仏教徒ですが西部ラカイン州に住む少数民族「ロヒンギャ」は イスラム教であることから迫害を受け、子どもの殺害、レイプが行われ家・財産は奪われ難民は2016年で14万人を越えるそうです。    北部のカチン州に住む少数民族「カチン族」はキリスト教徒が多いこともあってミャンマー国軍との間に紛争が続いています。

 インドの国旗はサフラン・白・緑の横三色になっており、サフランは(ヒンドゥー教)、緑は(イスラム教)、 中央の白は「アショーカ・チャクラ」という法輪を配し、2宗教の和解とその他の宗教を表わすされます。   パキスタンなどもサフランと緑を国旗に使っています。(2018.11.16)

 『宗教は、逆境に悩める者のためのため息であり、....民衆の阿片である』、『宗教とは希望と恐怖を両親とする娘』、『信仰は悲惨な人たちには慰めであり、幸運な人たちにとっては恐怖のまとである』...... 宗教には様々な格言・教訓が付いて廻ります。

 宗教とは、一旦それを信じてしまえば、他の何よりも最優先する存在だとされます。  もしその宗教で輸血はしてはならないと定められていれば、信者はたとえ自分の愛する子供が事故で輸血をしないと命を失う状況であろうが、 輸血をしてはならないのです。

 信奉する人たちにとって宗教とは、『その人たちが生きて、今この世にあるという存在を肯定できる最大の拠り所なのです』、『信じている人たちにとって、 その宗教、その神の存在は絶対なのです』(伊集院静「週間文春・悩むが花」)。

 福沢諭吉は社会の潤滑油としての宗教の価値は認めつつも、『....わが日本の宗教の功徳(くどく・神仏の恵み)は人々の営みにまでは浸透しておらず、ただ寺院の中の説教にのみわずかにとどまっている。    宗教の力のみで国民に倫理や徳を浸透させ維持することができないのは明らかだ』、として日本における宗教の力は評価していませんでした。(2016.11.16)




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