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大東亜戦争は独立戦争

 日本は「生き残るための戦い」であり 「止むにやまれず起こした戦争」だった 「大東亜戦争(太平洋戦争)」へ追い込まれたわけですが、 近年では欧米の歴史家や学識者の間にも、 「日本がアジアを侵略したというのは日本のせいで植民地を失った欧米による 史実を直視しない作為的な論議であり、併合の仕方に鑑みても、戦前から日本が主張していたように、 “有色民族に対する白人支配からの解放戦”とみる方が妥当である」 といった論評も出始めています。

 戦後もそろそろ百年にもなろうかという今、世界中で中国・韓国だけが「日本は侵略国家で我々はその被害者」と言い立て、謝罪と戦後補償を要求し続けています。     中国は総額約3.5兆円以上の対中ODAを日本から分捕り、 韓国も現在の価格に換算すると合計4兆5000億円以上ともいわれる戦後賠償金をせしめておきながら、 ズーズーしく日本にタカルことを止めようとしません。    「支那事変(日中戦争)」関連の書籍も、 日本だけ悪者にするものが多すぎます。

 たしかに大東亜戦争において、日本軍は極東アジアや南太平洋地域の地で連合国側と激しい戦いを展開し、地域の人々に迷惑をかけたのは事実であり、 戦後は過去何度も謝罪し償いとして補償もキチンと行っています。    そもそも、大東亜戦争は白人列強による植民地支配からの独立戦争であり、 安全保障の必要に迫られた戦争でした。   「日本がアジアを侵略した」などという話は、 戦勝国側がすべての戦争責任を日本に押し付けたプロパガンダ であり騙されてはなりません。

 三島由紀夫は「歴史とは常に勝者のものである」としています。 白人列強による植民地支配に終止符を打った日本は、 戦勝国側がすべての戦争責任を日本に押しつけたため、「列強の犯罪隠し」のスケープゴートにされ、 勝者側につき祖国を喜んで悪者にした反日的日本人たちが、日本の悪事が書かれているものは全て真実として捉え、 せっせと日本を悪者国家に仕立てた結果、 「日本は戦争を引き起こした侵略国家」という汚名を着せられてしまったのです。    そもそも日本が侵略戦争を行ったか否かは、中韓の怨念が渦巻く現代で断定できるハズはありません。   100年後の歴史観察で公平に判定されるべきものです。

 インドネシアのブン・トモ情報・宣伝相は、 『...われわれアジア・アフリカの有色民族は、 ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みて全部失敗したが、日本軍がわれわれの面前で白人国を徹底的に打ちのめしてくれた.... そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった.... それなのに日本だけに担当させ、 少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった』、『....われわれは白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信をもち独立は近いと思った......日本が敗北した時は、 これからの独立戦争は自力で遂行しなければならないと思った』(新歴史の真実・前野徹)、 と日本に謝意を述べています。

 占領軍の指揮官だったマッカーサーは、1951年(昭和26年)5月3日、米国議会上院において、『日本は(中略).....その他実に多くの原料が欠如している。  そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。  もしこれらの原料の供給を断ち切られたら 、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです』と証言しています。  米国によって生命線を断ち切られた日本は生き残るため死中活路を見出した戦い」に打って出たのです。

 このような背景もあったことを理解しつつ、そろそろ我々日本人はいつまでも戦いに勝利した側の言い分ばかりを鵜吞みにせず、 戦後の「日本悪者説」になど惑わされず、 「軍部が悪かった、天皇制が悪かった」などという枝葉の部分だけ見るのではなく、なぜ日本が戦争への道を突き進むことになったのか、 「先の戦争の本当の姿」を知るべきです。(2024.12.20)


  

植民地支配合戦の嵐が吹き荒れた時代

 19世紀、自国内を統一したヨーロッパ諸国は、経済的利益確保のため競って海外に武力進出し弱小国家を次々に植民地支配していました。 明治維新を成し遂げ近代国家へと歩み始めたばかりの日本は、 そんな食うか食われるかという弱肉強食時代の只中へと放り込まれました。  それはまさに『...塀も柵もない原野を野盗の群れが走り回っている...(西尾幹二)』世界だったのです。

 現代の世界地図は"強い民族が弱い民族を征服してきた得点表 のようなもの"(森本哲郎「戦争と人間」)とされます。     当時は世界中で白人による植民地支配合戦が繰り広げられており、 弱小国家は有無を言わせず強国の支配下におかれる運命となってしまう時代でした。

 当時植民地支配を受けなかった国は、アジアにおいては日本をはじめ、 タイ、ネパールなど3ヶ国。   ヨーロッパでもせいぜいイギリス、フランス、ロシア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリア、オーストリア、 デンマーク、スイスの10ヵ国ほどとされていました。

 お隣中国も白人列強に「半植民地状態」にされており、ロシアにより遼東半島の旅順、大連を租借され、 東清鉄道の施設権を獲られ満洲を併呑(へいどん・強国が弱国を勢力下におく)されます。  さらにドイツには山東省を支配されフランスにも広州湾一帯が租借されます。     イギリスに至っては九竜半島北部地域(新界)を租借した挙句、 紅茶代金代わりのアヘンで中国人民をアヘン中毒患者だらけにします。

 そんな「支配する側になるか、支配される側になるか」の世界で、日本は軍事的にも経済的にも強国となる必要がありました。  良し悪しは別として日本が欧米諸国のように 海外に領土を持つ拡張主義への道を選択したのは歴史の必然だったのです。  日本は日清戦争で清(現中国)、 日露戦争ではロシアを打ち負かし、台湾、朝鮮半島を支配します。

 「今の時代の基準で過去の出来事を裁いてはならない」という格言があります。  食うか食われるかという当時の世界史において、拡張主義の先輩、欧米諸国は日本の行動を 『文明のルール』に従った当然のこととみなしていたのです。  「支配するか、されるか」の恐ろしい時代に日本がとった行動を、 その時代に生きてもいなかった人間が「絶対平和主義」という自己満足のプリズムを通過させて「日本はアジアに侵略してひどいことをした」 と一方的に批判することは避けなければなりません。

 「強い国が弱い国を支配する世界史のゲーム」において、日本は極東アジアの地で勝利をおさめ、インドネシアのブン・トモ情報・宣伝相が指摘したように、 『...日本軍がわれわれの面前で白人国を徹底的に打ちのめし...』その地を支配していた白人列強を追い払ったのです。   もし日本という国が存在していなかったら、アジアではいまでも「弱小国を強国が植民地支配するゲーム」が当たり前のように続いていたかもしれません。

 「強い国が弱い国を支配する世界史のゲーム」に明け暮れていた欧米諸国は、戦後は有色人国家から散々搾取した過去に頬被りし、 日本にだけ戦争責任を全て押し付けましたが、日本国民は 「日本は植民地支配ゲームに終止符を打たせた国」という歴史の事実を忘れてはいけません。  21世紀の世界においても、ロシアがウクライナに軍事侵攻するなど 戦争は無くなりませんが、少なくとも強国が弱小国を植民地支配することが地球上からほとんど一掃されたのは、日本という国の存在があったからなのです。(2024.12.20)


  

日本と欧米の「植民地支配」は別物

 「植民地支配」の目的は自分の経済的利益を確保するためですが、台湾や朝鮮を支配した日本は決して経済的利益は得ていませんでした。  それどころか、日本は台湾や朝鮮に対し膨大な国家予算をつぎ込んだのです。    それもこれも、当時の有色人種を人間扱いしない白人至上主義による東アジア植民地支配合戦から防衛するため、一刻も早く台湾・朝鮮を 近代国家へ育てるという目的があったのです。

 フィリピンを植民地支配したアメリカは、将来のフィリピン独立を視野に入れ 高級官僚に大量のフィリピン人を登用し教育に力を入れました。  しかし、インフラを整備する などという政策はとりませんでした。  フィリピンは自治権は得られましたが、資源を搾取されただけで経済発展することはなかったのです。  将来アメリカの支配から離れるフィリピンに わざわざ投資するはずはないのです。(教科書が教えない歴史)

 それに比べ、日本による統治は当時欧米諸国が行った植民地から大量の富を収奪したのとは異なっていました。  台湾・朝鮮を自国の一つと捉えた日本は、 国民の血税を投入し工業・農業を発展させました。  電力消費量で見ても、1930年代後半には台湾・朝鮮が一人当たり百キロワットだったのに対し、フィリピンはわずか10キロワット以下でした。    農業に関しても台湾は二毛作は当然で一部では三毛作まで行われましたが、フィリピンは稲作技術はおろか灌漑技術が進まないため育成期の水不足もあり、二毛作の比率は数パーセント程度だったといいます。

 このように日本の台湾・朝鮮支配を欧米の植民地支配と同列にしてしまったら、歴史を見誤ります。  欧米の「植民地支配」は虐殺・略奪・収奪する支配であり、 現地住民の生活向上という精神はなく絞り取るだけの政策です。   それに対し日本は台湾・朝鮮を 「植民地化」ではなく「併合」したのであり、 欧米列強がアジア・アフリカ諸国に対して行った、武力と恫喝による搾取一本やりの「植民地支配」とは全く異なります。 日本の「併合」は現地の人々の生活向上を目的とするものでもあったのです。

 戦後の「日本はアジアを侵略した」というプロパガンダに晒され、朝鮮を植民地支配し文化も教育も奪ったなどという トンデモ歴史本が巷に溢れましたが、事実は全く逆で日本は台湾・朝鮮を近代国家へと育てた国です。    騙されてはいけません。

 当時の日本は「植民地支配の撤廃」、「民族の自立」という目的のため「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げ、 1943年(昭和18年)11月5~6日、日本が白人列強をアジアから追い払ったことで独立を果たしたアジア諸国 の国政最高責任者を招請して、 近代史上初めて有色人種のみが一堂に会しアジア地域の首脳会議、いわゆる『大東亜会議』を開催します。

 この会議は植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため、きわめて和やかに進められ、第2回目も計画されましたが戦局の悪化に伴って開催困難となりました。  戦後日本を占領した、 有色人種を散々植民地支配した連合国軍総司令部(GHQ)にとって、日本に戦争責任をすべて押し付けるためにはこれらの史実は表ざたにはできません。  そこで アジアの指導者たちに自信を与えた日本の功績 を消し去るため、「大東亜戦争」、 「八紘一宇」といったコトバを使うことを一切禁止したのです。(2024.12.20)


  

有色人種で日本だけが植民地支配されなかった

 世界中で中国と韓国だけがいまだに日本に対し敵意を抱いています。  たしかに、他民族に支配されたことへの怨念は、その民族の胸に疼いているのも当然でしょう。   ただ、 中国は日本より先に白人列強によって半植民地支配されたはずですが、 なぜか白人国に対しては一言も文句をつけません。  韓国も何百年にもわたり中国の属国として扱われ牛耳られてきたはずなのに、 中国にはいまだに頭が上がらないようです。

 このように、中国や韓国が日本を執拗に恨む心理には、支配云々というより、同じ有色人種なのに 日本だけ植民地支配されなかったという、 どう足掻いても消えない妬みがあるのかもしれません。  したがって中韓の反日意識が消滅する ことはあり得ないのです。

 反日勢力がいくら否定しようが、日本が「アジア諸民族を独立へと導いた」という 先の戦争で日本が果たした役割は消えません。  ところが、戦後は勝者側の都合でその史実が隠蔽され、 「日本がアジアを侵略した」という部分だけがクローズアップされた結果、 日本悪者説が堂々と蔓延り、あることないこと数々の悪行がこれでもかというほど 誇張して喧伝され糾弾されてきました。  日本人としてこれを放置するわけにはいかず、正す必要があります。

 戦争という究極の生き残りゲームにおいて、民間人は一切傷つけず非の打ちどころのない軍事行動を通すことは不可能であり、また日本軍兵士も清廉潔白で品行方正な兵士ばかりではなかったのも事実だったでしょう。    なかには平気で残虐行為を犯した者もいたはずです。   日本軍は東アジア諸国に広く展開して統治したわけですが、統治責任者の資質、いわゆる人柄とか方針によって、現地人の評価がガラリと別れるのは仕方ありません。

 天皇絶対の軍人が幅を利かし民主主義とはほど遠かった戦時中、日本軍には 前例主義と精神主義が蔓延り、軍幹部には暗記能力だけ優れ想像力の欠如している者が 参謀として軍中枢に居座り、 現実の戦闘でまったく通用しない無謀な作戦を最前線の部隊に押し付け、いたずらに兵士の命が失われました。  そんな指揮官が統治した現地では非道な行為はあったでしょう。

 無能指揮官の一人、牟田口軍司令官というお粗末な人物は、 無謀な作戦の代名詞として引用される「インパール作戦」で大勢の将兵をビルマ国境に置き去りにし無駄死にさせた人物ですが、その作戦ではジンギス汗の故智にならい牛を食糧として帯同、 あわよくば敵から糧食を奪う計画だったといいます。  『明治の頭で昭和の軍備をしていた』 日本軍に所詮勝ち目はなかったのです。

 ただ、すべての日本兵が無能だったわけではありません。  日本軍指揮官の中にも立派な指導者は大勢いました。   ユダヤ難民を救った樋口季一郎少将や、 北京籠城戦を守り抜き日英同盟の端緒を開いた柴五郎中佐オランダの圧制からインドネシアを解放し独立を助けたとして敬愛される堀内海軍大佐といった、 人格に優れ現地の人から尊敬された指導者も大勢いたのです。(2024.12.20)


  

日本の安全保障の要だった「朝鮮半島」

 ユーラシア大陸から日本に向けて突き出されたナイフのような形状をしている朝鮮半島は、各国の思惑がぶつかり合う渦巻の中心であり、周辺国の存亡を握る緩衝地帯 (新城道彦『朝鮮半島の歴史―政争と外患の六百年―』)で、地政学的にも戦略的にも極東アジア地域の重要な位置を占めており、日本のアキレス腱とも言える地域です。

 その朝鮮半島を日本は併合統治したわけですが、戦後のある中学生教科書には日本の併合を植民地支配と断定したうえで 『...日本人の心の中には、朝鮮人を差別するまちがった意識が強められていきました..』と記述されています。    たしかに差別はどこにでもあり、当時は多くの日本人がこのような差別意識を持っていたのも事実だったでしょう。  ただし、この教科書は歴史の事実の半分も述べていません。    事実を「日本は加害者で朝鮮は被害者という偏向プリズム」を通して見ているのです。

 今でこそ差別は少なくなりましたが、戦前・戦中のアメリカ人の有色人種蔑視はすさまじく、カルフォルニア州の多くのレストランでは 「犬とジャップは立ち入るべからず」としていました。     東京裁判の判事レーニングは 「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」としています。

 そもそも、当時は朝鮮人こそ日本に対し優越感や差別意識を抱いていたのです。  日本に併合される前の朝鮮は、中国を世界の中心とする「中華思想」の優等生としての立場に甘んじ、 周辺地域の国は文化的に遅れた野蛮な国であるとする「華夷秩序」にどっぷりつかっていたのです。  当時の朝鮮人こそ、世界の中心・中国が存在する限り自分の身の安全は保証されるという幻想を抱き、 辺境の地・日本を蔑視していたのです。

 したがって日本が食うか食われるかの植民地支配合戦の生き残りをかけて近代化に邁進することの意味さえ分からず、必死に西洋のマネをする日本を、 自国の伝統を捨てた愚か者と見下していたのです。 朝鮮人こそ、相手を差別するまちがった意識の持ち主だったのです。

 明治維新翌年の1869年以降、 明治政府は対馬藩を介し天皇の勅使を何度も朝鮮に送り近代化推進と国交樹立の提案を行います。   しかし、李氏朝鮮政府はこの申し出を相手にせず、日本使節を追い返します。    清国の冊封体制下に甘んじる朝鮮は、西洋に倣って開国した日本を蔑視し、 日本からの国書の中に中華王朝の皇帝にのみ許される称号である「皇」の文字が入っていることを理由に、なんと8年にわたり国書の受け取りを拒否したのです。    業を煮やした日本は、この書契問題を背景に一時は朝鮮出兵を求める征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになります。

 先の中学生の教科書はこのような歴史には一切触れていないわけですが、朝鮮側こそ先に日本を蔑視していたという史実も同時に書かなければ、本当の歴史の姿は見えてきません。   戦後の教育はこのようなゆがんだ歴史観教育がいまだに行われ、 「日本悪玉説」が日本の将来を担う子供たちに刷り込まれているのです。(2024.12.20)


  

古来から、日本の防壁と見なされていた朝鮮半島

 天智天皇(中大兄皇子)の時代、中国(当時・唐)は世界の超大国であり、その唐は朝鮮半島支配を目論見、中国伝統の「遠交近攻」戦略により、 その地で勢力争いを繰り広げていた高句麗・百済・新羅のうち、新羅と手を組みます。    唐は自分の手先として朝鮮三国の一国を選び、そこと手を組み他の二国を滅ぼした後に、 同盟した国を亡ぼす、という形で朝鮮半島全土を支配しようとしたわけです。

 新羅としてもそこは十分承知していましたが、当時の新羅は弱小国であり背に腹は代えられません。 結果、滅亡に瀕していた 新羅は唐と手を結び、その連合軍は660年に百済を滅ぼしたのです。    これに慌てたのが日本です。  いずれ唐は新羅を滅亡させたら次に日本に矛先を向けてくるのは確実です。  朝鮮半島の三国すべて滅ぼされてしまえば 日本にとっての防波堤は消滅し、単独で唐に立ち向かうしか術はありません。

 百済と倭国(今の日本)は399年に同盟を結んでおり、その後も 日本(倭国)と百済の主従関係を担保するための人質として「余豊璋」という百済の王子が日本に滞在していました。    人質といっても倭国側要人の妹を豊璋に娶わせるなどの待遇を受けており駐日大使ともいうべき存在だったとされます。  百済の残党(パルチザン)と日本は朝鮮半島支配を目論む唐に対する対抗手段として 百済を復興させ防壁にしようと考えます。

 日本は百済復興が成就した暁には、百済が日本の属国となることを条件に、豊璋とともに軍団を送り込みます。 しかし、日本・百済連合軍は、663年、 朝鮮半島白村江において唐・新羅連合軍の待ち伏せに遭い、ほぼ全滅に近い敗北を被ったのです。    敗因は海上戦における日本側の船の粗悪さでした。    当時の日本の船は竜骨もない作りで強度が不足していたため、水上戦において散々打ち負かされたのです。

 これで、日本側はヘタしたら明日にでも唐・新羅連合軍が攻めてくるのではないかと怖れます。  そこで朝鮮半島から亡命してきた百済人の力を借り、 西日本の各地に朝鮮式山城を築城します。  築いたのは山城ばかりではありません。  最前線である博多から太宰府にかけ全長1.2キロ、高さ14mという 一種の堤防も造っています。  これは、もし敵が博多に上陸し当時の政庁だった大宰府に攻めてきたら、 堤防に溜ておいた水を防壁にするという軍事施設でした。

 天智天皇が唐の侵攻を防ぐため築いた防衛施設はこれだけではありません。  最も朝鮮半島に近い対馬には「金田城」。  佐賀県には「基肄城」、福岡県には「大野城」、 岡山県には桃太郎伝説で鬼の住処とされた「鬼ノ城」などなど、いずれも高い山の頂を石塁で囲った朝鮮式の山城を築城したのです。  そればかりか、667年都をわざわざ内陸滋賀県へ遷都し 「近江大津宮」としています。(逆説の日本史・② 井沢元彦)

 当時いかに天智天皇が唐の侵攻を恐れ、恐怖にさいなまれていたかが偲ばれますが、このように、古代から治世者は本気で 朝鮮半島がいかに日本の安全保障にとって重要な位置を占めているか、痛いほど分かっていたのです。    現に、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」において、二度もいわゆる 「元寇」によって日本は領土を侵略されかかっています。     元寇は英雄・北条時宗という優れた指導者がいたため、かろうじて中国の侵攻を食い止められましたが、 現代のへなちょこ政治家しかいない日本がもし中国に攻め込まれたら、属国の立場にされてしまうのは間違いありません。 (2024.12.25)


  

朝鮮をめぐる対立が日清・日露戦争を招いた

 朝鮮半島が万が一、列強に軍事支配されてしまえば、日本はいつその侵略を受けるか常に怯えなければなりません。  言い換えれば、弱者が強者に支配されるのが当然だった帝国主義時代の朝鮮半島は、 日本に突き付けられた凶器でもあったのです。

 この朝鮮半島にロシアや中国(当時は清朝)が居座る事態となれば、必然的に日本は危うい立場に陥ります。  朝鮮建国以来からの宗主国(朝鮮を支配する国)である超大国・中国も、朝鮮をこのまま放置しておくはずはなく、 近代国際法的な属国へと位置づけし直そうと積極的に関与していました。

 この状況を例えれば、長屋の薄い壁一枚隔てたお隣に、他人の命など奪うことなど何ら躊躇わない凶悪な隣人が入り込もうとしているようなものであり、それではおちおち寝てもいられません。   したがって日本はなんとしても隣に物騒な人が入り込まないよう、内政干渉と言われようが介入していかざるを得なかったのです。

 そこで、日本は朝鮮半島にも日本同様に独立国家としての気概を持ち、外国に支配される心配のない近代的な国家を誕生させようと 開国を迫ります。 ところが、肝心の朝鮮は「支配される側になるか、それとも支配する側になるか」 という緊迫した国際情勢の只中に置かれているというのに、中国に遠慮しヤレ国書に「皇」の文字が入っているなどと、いつまでも形式にこだわり開国・国交樹立を拒み続けるのです。    これには、一時 明治政府の強硬派からは「征韓論」 が巻き起こるようになります。

 日本はなんとか朝鮮を開国させようとしますが、朝鮮はのらりくらりと誤魔化しロシアや中国の顔色を窺うばかりです。  この朝鮮半島をめぐるせめぎあいは 紆余曲折を経たのち、 日清対決は避けられない情勢となっていきます。    そしてとうとう1894年(明治27年)7月25日、「日清戦争(~1895年3月)」が勃発します。    日本は圧倒的強さで「眠れる獅子」清(中国)を打ち破り、勝利した日本は 清朝の属国だった朝鮮を解放し、1895年に日清講和条約(下関条約)を清と締結します。

 この下関条約の第1条には、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」と明記されています。  この条約により、 日本は朝鮮が自主独立国であることを、清国と国際社会に正式に認めさせます。    朝鮮指導者たちが望んだかどうかは別として、これにより朝鮮が自立し近代国家へ邁進するスタートとなる機会だったハズでした。

 ところが中国を宗主国とする「華夷秩序」にどっぷりつかっていた朝鮮政府に、自主独立とか近代化などという発想はなく、それどころか、 列強に植民地支配された中国にサッサと見切りをつけ、 日本が一番警戒していたロシアに、ノコノコすり寄ろうとする始末です。  当時のロシア帝国も、領土の拡大を目指し「南下政策」を企てており、 朝鮮半島の支配を目論んでいたのですが、日本の影響がこれ以上自分に及ばないようにすることしか頭にない朝鮮政府は、自らロシアに庇護を求める始末です。

 こんな有様ではどうしようもありません。  こうして、朝鮮には近代化どころか自立の精神さえないことを思い知らされた日本は、自ら朝鮮支配に舵を切ります。   日清・日露戦争はこのような状況から生まれたのです。  その後日本は朝鮮の外交権を奪い従属下に置くこととなります。  現代おいても 「日本が朝鮮を植民地支配したのは許せない」という意見の政治家もいますが、 日本が朝鮮を支配したのは朝鮮が二度とロシアと結びつかないようにするためであり、 当時の食うか食われるかの世界情勢では、日本の安全保障のためにはこうするより道はなかったのです。(2024.12.20)


  

韓国を併合せざるを得なくなった日本

 日本が統治する前の朝鮮は、長年中国の顔色ばかり窺ってきたため「民族の独創性」などと無縁の前近代国家体制のまま、 厳しい身分制度によって自分と同じ民族を奴隷にし、貨幣さえ存在しないという 世界最貧国のひとつでした。 日本は、そのような 支配階級から虐げられ続けた「苦難の歴史」から朝鮮民族を解放し、 李氏朝鮮の非人道的な身分制度を廃止させた国です。

 韓国の名門・延世大学の教授・柳錫春(リュ・ソクチュン)氏は、「韓国の発展が天から落ちてきたのでなければ、発展の歴史的ルーツ がなければならないのに、朴正煕でもなく李承晩でもないというなら、 植民地支配の時期にならざるを得ないのではないでしょうか」 として韓国人は「植民地時代」を再評価すべきとしています。

 韓国は日本の力によって中国の頸木から解放され独立国家となったわけですが、せっかく独立国家となったというのに 「事大主義」丸出しに右往左往するばかりです。 それも無理はありません。  それまでの韓国は中国の冊封国(中国王朝を宗主国とした従属国)としての立場に甘んじ、「その場しのぎの処世術」 で生き延びてきた前近代国家だったのです。

 そんな国が、いきなり当時の弱小国家は強国に否応なく支配されるという近代文明の只中に放り込まれたわけです。  自立精神はおろか近代文明国でもない韓国が、 そんな弱肉強食の世界において生き延びるための国のかじ取りをうまくやれるはずもありません。  結果、列強に翻弄されるがまま、 南下政策を進めるロシアに急接近するなど、東アジアの安全保障を自らブチ壊す行動を取り続けます。

 日本にとって潜在的敵国は今も昔もロシアです。 朝鮮の覇権をめぐり中国に勝利した日本は今度はロシアと対峙します。    朝鮮半島支配を目論むロシアは、ヨーロッパ列強から 世界最強の陸軍国と恐れられ、大英帝国でさえ正面衝突は避けていたほどの強国でしたが、日本は国家存亡をかけ 一世一代の大勝負に出ます。  当時世界中で日本の勝利を予想した者はいなかったほどの大博打でした。   当時の日本銀行副総裁・高橋是清は、日露戦争前に日本の国債を売って なんとか戦費を作ろうとしますがアメリカは相手にしません。 しかし、日英同盟を結んだイギリスと、ユダヤ系銀行家ヤコプ・ヘンリー・シフによって戦費調達に成功します。

 結果、日本はなんとか日露戦争に勝利します。    日露戦争における日本の勝利は、世界各国の歴史教科書で特筆されているほどの衝撃的な結末であり、 日本はこれを機に世界の一等国(列強)の仲間入りを果たしたのです。   日本は、 欧米列強に根回しし朝鮮における指導的地位を強めていきます。 ただし、 この時点では第二次日韓協約(日韓保護条約)を締結して 韓国保護国化へ舵を切っただけで、まだ併合支配するまで行きません。

 ところが、日本と協力関係を築こうなどという意思など毛頭ない初代大韓帝国皇帝・高宗(ゴジョン)は、その後も極東アジアの安全保障に寄与するどころか、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、 第二次日韓協約の無効を訴える(ハーグ密使事件)を起こすなど反抗するばかりです。  挙句には朝鮮人が韓国統監府初代統監だった 伊藤博文を暗殺してしまったのです。  伊藤は台湾統治の経験から、 韓国政府を介した間接統治を目指していました。

 もはやここに至っては、このまま韓国を放置しておくわけにもいかず、とうとう日本はイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国など世界主要国の了承を得て、 韓国保護国化へ舵を切ります。    これにより「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を、完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した 「韓国併合条約」が正式に締結されます。   韓国は日本の一部となり、韓国民も日本国民とみなされるようになったのです。  日本は 極東アジアの植民地化を防ぐため、止むに止まれず韓国を統治したのです。(2024.12.25)


  

「第三次日韓協約」からいよいよ韓国併合へ

 日本は日露戦争に勝利し南満州まで手に入れたので、取りあえずはロシアが直ちに朝鮮半島まで侵攻してくる恐れは薄らいだわけです。  せっかく朝鮮を自主独立国・大韓帝国として誕生させたのを、 後に併合支配し日本国の一員としたことについては、必ずしも必要ではなかったのでは、という意見もあります。  ただ、それは後追いの理屈であり、 結局日本は自立精神が欠如し節操のない朝鮮を信用できなかったのです。

 ただし、これは極貧の生活を送る下層階級の民から散々搾取していた朝鮮社会に寄生する支配階級の役人 たちがそうだったということであり、清国支配からの脱却を目指した朝鮮独立党の指導者・金玉均(きん ぎょくきん)ら 急進的な開化派は「このままでは朝鮮に未来はない」 として日本に頼ろうとしていた人物もいたのです。  こうして日本は国際法に則り列強諸国の承認を受け、 「韓国を植民地化ではなく併合」したわけですが、これはそれまでの欧米列強がアジア・アフリカ諸国に対して行った、 武力と恫喝による一方的な「植民地支配」とは、全く異なるものです。  しかし、韓国皇帝・高宗が企てたハーグ密使事件は、思わぬ方向へと飛び火します。

 もともと高宗は国家予算を国家改革ではなく権威拡大に使って国を失ったとされ、 外国勢力に頼りすぎる主体性の無さが国内の混乱を招いたとされる人物ですが、これに韓国政府も「国が大事か、皇帝が大事か」と怒り、 皇帝に譲位を迫り退位させてしまったのです。  高宗はハーグで日本の不当支配を訴え各国から無視されましたが、そもそも植民地支配合戦に明け暮れる欧米列強が、 『強国が弱国を支配する文明のルール』に従った日本を批判できるはずはありません。  高宗には対外干渉を受け国を失った亡国の主という批判もあります。

 日本が高宗を退位させたわけではなかったのですが、退位に怒った韓国国民は首相官邸に火をつけるなど大暴動が起こり、それに対抗して日本は日本軍の派兵を決めるなど事態は混迷していきます。 その結果、 「第三次日韓協約」が結ばれ、各省に日本人次官を起用し、内政全般については日本が韓国に設置した韓国統監府 総監の承認が必要とされてしまったのです。  また日本軍到着により韓国軍の解散が発表されますが、これにより失業した軍関係者が中心となり、韓国各地で激しい暴動が起きます。

 この騒動に対し日本は明石元二郎を憲兵隊長に起用し、徹底的な弾圧を行います。  明石元二郎という人物は、ほとんど歯を磨く習慣がなくそれが晩年まで続いたとか、 服装に無頓着で陸軍士官学校時代は制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた、など数々のエピソードがある奇人です。

 一方、フランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していたとされ、あるパーティの席でドイツの士官がフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた際、明石は「フランス語がやっとです」 とわざと下手なフランス語で答えたため、油断したドイツ士官はドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めたといいます。    明石はロシアにおける諜報活動でも活躍し、参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評していたほどの傑出した人物でした。

 しかし、1909年になっても韓国の反日暴動は一向に収まりません。 仕方なく、韓国統監・伊藤博文は韓国併合を決断したとされています。   これは伊藤がハルビンで安重根に銃撃される数か月前でした。  激しい反乱が峠を越えたのはこの年後半で、やっと韓国内にも 日韓併合はやむを得ないというムードが広がっていきます。   これに積極的に後押ししたのが、「一進会」という東学党の流れをくむ韓国の団体です。(2024.12.20)


  

韓国併合に一役買った韓国「一進会」

 「一進会」は日露戦争時に設立され「政治改革と民主の自由」を掲げ、日韓軍事同盟によりロシアの侵攻を阻止することが、 大韓帝国に対するロシアの影響力を弱め、さらには欧米列強のアジア進出を防ぎ朝鮮の復興になるとも考えていました。  日露戦争においても 日本軍が物資輸送のための鉄道敷設計画を人員不足で諦めていた際、一進会が会員14万人以上を動員し敷設工事に無償支援したり、 日本軍の軍事物資輸送の支援にも乗り出し、10万人以上の会員が自費で日本軍の軍事物資輸送を支援し日本軍の武器、食料を戦地まで運んでいます。

 「一進会」は合邦(国家を合併すること)についての請願書を出すなど韓国併合に一役買った韓国の組織でした。  こうしたいきさつを経て、とうとう1910年(明治43年)8月22日、 日本と大韓帝国が合併する日が訪れます。  韓国総理・李完用が皇帝・純宗に対し 「日韓併合に関する条約」を結ぶことについて奏上(そうじょう・天皇や皇帝などに意見を申し上げること)し、 純宗はこれを承認します。    韓国側で反対したのは学部大臣・李容植ただ一人とされます。

 こうして韓国は正式に日本に併合されたわけですが、併合した韓国の初代総督に就任した寺内正毅正武は、朝鮮人の参政権を認めず、すべての政党に解散を命じます。   「一進会」も例外ではありませんでしたが、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けたとされます。  当時「一進会」が桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、桂は千万円でも差し支えなしと答えたといいます。

 1919年1月21日に初代大韓帝国皇帝・高宗が死亡しますが、このとき『彼の息子が日本の皇族と結婚することに抗議して服毒自殺した』、 『日本によって毒殺された』というウワサ話がキッカケとなり、 日本からの独立を宣言し自治独立を求めるという、朝鮮半島全域を揺るがす反乱事件が勃発します。  これは「三・一運動」 と呼ばれています。  ただ併合前の保護国だった時期から、韓国では旧支配層の不満や朝鮮軍解散を原因として「義兵」という形の抵抗が頻繁にありました。

 「三・一運動」の主力は天道教とキリスト教一派とされます。  天道教は1860年に慶州出身の崔済愚が起こした新宗教・東学党の正統を受け継ぐとして孫秉煕が宣布したもので、 反日・反閔氏政権の農民たちを扇動して起こした東学党事件以来のバリバリの反日勢力です。  日本との協調を主張した「一進会」の李容九も東学党の流れを受け継ぎ「侍天教」を興していますが、 併合により勢力が大幅に激減したことや、孫秉煕の熱心な布教活動により「一進会」会員が多数天道教に戻ったことで信徒百万人を誇っていました。  この辺りの勢力争いも「三・一運動」の背景にあったのです。

 ちなみに、この事件は日本国内では「万歳事件」と言われ、一部の「反日」的な暴徒が「独立万歳」を叫びながら示威行為を行ったので弾圧された、と報じられています。   『或る呪文を唱えたら弾が当たらない』と首謀者たちが無知な大衆を騙し、マンセー(万歳)、マンセー、と騒がした。   初めのうちは日本側も殺す意図はないので 空砲で威嚇していたが、『それ見ろ弾はあたらんぞ』と瞬く間に騒ぎが大きくなっていき、止むを得ず先頭の数人を射殺したら、 蜘蛛の子を散らす様に逃げて騒ぎが収まった、と当時の状況を伝える証言もあります。(2024.12.20)


  

純粋な独立運動ではなかった「三・一運動」

 「三・一運動」は2カ月ほどで収束していますが、そもそも、きっかけからして弱いものです。   1919年(大正8年)3月1日、漢城のパゴタ公園に宗教指導者33人が集結し独立宣言文を読み上げる計画が進んでいたが、なぜかこの計画は実行されず、その後宗教指導者たちは公園近くの遊郭に移動し、 独立宣言文を読み上げただけでさっさと自首したといいますから、それほど切羽詰まった決起 というものではなかったようです。

 この騒動は日本の統治により特権を失った両班や旧軍人たちが暴動を主導したとされ、暴徒たちは同胞である朝鮮人に対しても襲い掛かったとされ、 そのため日本の駐在所や憲兵事務所には保護を求める朝鮮人が押し寄せたといいます。  動機としても日本弱体化を狙った白人国家が、宣教師を使って信者たちを扇動したという見方もあります。

 この騒動の被害規模については、なんとしても日本の残虐性を訴えたい韓国の教科書には、無差別の銃撃よって7509人が殺され、 1万5961人が負傷させられたとあります。  一方、教科書に自分の国の非を書き立てるのが大好きな日本の教科書には、 5万人の死傷者が出たと書かれているものもありますが、流石にこの数字は韓国側の数字と較べても誇大すぎます。 恐るべき日本教科書の反日媚韓ぶりなのです。

 キリスト教徒の暴徒というと場違いな感じもしますが、昔から白人侵略国家は植民地支配しようとする地域を懐柔させる手段として、 予め キリスト教宣教師という先兵を使い植民地化しようとする国に派遣するのが常套手段です。 昔から異民族を支配しようとするときは、 被支配民族の分断を図る常套手段が"改宗"というやり方なのです。  当初、豊臣秀吉はキリスト教布教活動に寛大でしたが、その後 バテレン追放令を発布したのも、 キリスト教の危険性に気づいたからです。  宣教師らは口では愛だなんだと言いながら現地の人々を教化し、やがて隷属化し搾取をしていく足がかりを築いていくのです。

 この騒ぎは2カ月ほどで 尻窄み(しりすぼみ・徐々に小さくなる)に収束していきました。  国を挙げた反日革命騒動というより国内暴動が実態のようです。  一方、その最中の1919年4月15日には 「提岩里教会事件」という悲惨な事件が起こり、さらに、反日抵抗運動のシンボルとして 韓国で知らぬ者がいないとされる「柳寛順(ユ・グァンスン)」も犠牲になっています。 現在の韓国人も「三・一運動」を純粋な反日運動と捉えていますから、彼らの前でウッカリ 「単なる国内暴動」などと口にしないほうが無難です。

 この騒動により日本政府と植民地統治当局である総督府は統治姿勢を見直し、 武断政治を文化政治(武力ではない内地延長主義による政治)に転換させるようになったとされます。  また、 言論や集会の自由を認めるなど統治体制が改められ、朝鮮支配をよりソフトな形に変えていったのはたしかです。

 騒動の主力はキリスト教一派と、天道教だとされます。  天道教は1860年に慶州出身の崔済愚が起こした新宗教・東学党の正統を受け継ぐとして孫秉煕が宣布したもので、 反日・反閔氏政権の農民たちを扇動して起こした東学党事件以来の反日勢力です。  日本との協調を主張した「一進会」の李容九も東学党の流れを受け継ぎ「侍天教」を興しています。   この辺りの勢力争いも「三・一運動」の背景にあったのです。(2024.12.20)


  

韓国の真の独立は何時だったのか

 第二次大戦の終結により日本による韓国統治は終結し、韓国は終戦のドサクサで棚ぼた式に日本の統治を離れることになったわけですが、 即時独立は否認され、南朝鮮(韓国)ではアメリカ軍が軍政を開始し、 北朝鮮ではソ連軍(赤軍)が支配することになります。   その後も米ソによる朝鮮半島南北分断 など紆余曲折があり、結局、朝鮮統一化はなされず、韓国が本当の独立国家「大韓民国」として誕生するのは1948年8月15日でした。

 「日帝を負かして独立した」と主張する韓国ですが、第二次大戦が終結しても依然として アメリカの軍政下に置かれます。  強国の思惑に翻弄され続け流転の歴史を抱えてきた韓国の悲劇の一つに、 自分の国の真の独立がいったい何時なのかという問題があります。

 つまり、韓国の真の独立は「長年君臨してきた王朝・中国」から自力で逃れたわけでもなく、「日本と戦い勝利して得た」ものでもなく、 あくまで「連合軍の勝利によって対価なく棚ボタで与えられたもの」であり、 「国家の独立も自力で成し遂げたものではなかった」という黒歴史があるわけです。

 韓国は自国憲法前文に[悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法的伝統を継承する]と謳います。 たしかに、 三・一運動後の1919年4月11日、朝鮮独立運動を推進していた朝鮮人たちは、中華民国・上海に逃亡し 『大韓民国臨時政府』を結成。   初代大統領に李承晩を選出し、 「韓国光復軍」も創設しています。

 しかし、当時日本の韓国併合は合法として認められており、韓国の主張に対し国際社会は連合・枢軸国双方が国際承認を拒んだという歴史があります。  つまり、 韓国が中国に作ったと主張する『大韓民国臨時政府』は、適性が疑われ国家としての存在そのものが認められなかったのです。  それでも韓国は国外に逃れた連中が作った 『大韓民国臨時政府』こそ韓国の根だと言い張っているわけです。

  国際社会から存在を認められなかった『大韓民国臨時政府』を正統な大韓民国誕生年として 大韓民国の「建国神話」にして 『国史の整形』を重ね、 偽りの「建国神話」を掲げている限り、自他共に認める正式な建国日は決まりません。    そもそも、それでは1948年8月15日にアメリカによる軍政が終了して、正式に独立国として樹立が宣言され誕生した 「大韓民国」という国はなんなんだ、という話になってしまいます。    日本統治の終わりの1945年8月15日(光復節)でもなく、1948年8月15日でもないとする主張には無理がありそうです。

 日本が国際社会から承認を受け、韓国を正式に統治していた、という黒歴史を認めたくないのは分かりますが、 だからといって国際社会が認めなかった『大韓民国臨時政府』の存在を、ウソを重ねた歴史で正当化して憲法に載せてしまったらアウトでしょう。      ここが「棚ボタで独立を果たした韓国の悲劇」であり、かといって憲法前文を変えることはいまさらできず、かくして、 このまま未来永劫この神話を守り通し突き進むしか、道はないのです。(2024.12.26)


  

朝鮮を自主独立国にしようとした日本

 日本の韓国併合は、欧米列強の植民地支配とは全く異なるものでした。    そもそも、韓国同様に日本に併合された台湾の人々は 「日本の統治は生活水準と社会秩序を引き上げてくれた」 とプラスに評価してくれています。

 それに対し、韓国・朴槿恵(パククネ)大統領は2013年3月1日の韓国独立記念式典で、「千年恨(日本を千年恨む)」という言葉を使い、 「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、 1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説しました。  いまだに 「被害者意識を払拭できない」でいるのです。

 そして、その今更どうしようもできない歴史の怨みの矛先を向けるのが、 止むに止まれず韓国を統治した日本なのです。  戦後何十年経とうと、 韓国は『日本による韓国(朝鮮)併合は一方的な強制』であり、『日本帝国主義の支配』によって、 国土を奪われ、文化を奪われ、過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたと、 自国にとって都合のいい史観(歴史の解釈)を並べ立て『日本の戦争責任』を非難し続けているのです。

 韓国は数百年間に渡り自分たちを支配した中国には一言も文句を付けないのに、たかだか35年間支配し、しかも 韓国近代化に尽力した日本に対し、いまだに謝罪と賠償を求めることを止めようとしませんが、 それも無理からぬことで、近代以前の韓国(当時は李氏朝鮮)は世界の中心・中華文明に憧れ忠実な下僕を目指したため、恐れ多くて文句などつけられる立場ではなかったのです。

 中華文明が続く限り、「中華思想」優等生・韓国の席は保証されており、辺境の地にある日本など歯牙にも掛けず、中国の悪い部分もそっくりコピーしてしまったわけですが、 その中国は日清戦争において韓国が蔑視していたはずの日本にアッサリ打ち負かされ、挙句の果てに中国は眠れる獅子どころか、張り子のトラだったことがバレたため、 西洋国家によって半植民地とされてしまいます。

 当時の日本は極東アジアが植民地にされるのを阻止することが急務でした。    そのため、日清戦争に勝利したことで李氏朝鮮(現韓国) を 「大韓帝国(韓国)」として誕生させ中国の縛りから解放したのです。    日本は朝鮮を韓国という独立国家として誕生させ、自立のチャンスを与えたのです。  しかし、永年中国の冊封体制に置かれ「中国のコピー」に甘んじてきた韓国は、 自主独立の意味さえ理解せず、結局見るに見かねた日本が併合支配したのです。

 日本は決して最初から支配しようとしたわけではありません。 たしかに、 強国ロシアの南下政策に対抗する手段として韓国を近代国家へと自立させ 同盟を結ぼうとしたという背景はありましたが、それは現代の日本と米国の関係でも見られる当然の戦略であり、それを批判するのはお門違いというものです。    以前の日本との関係を熟知していた韓国指導者たちは、その背景も日本の功績も認めて いたのです。

 それなのに、独立を自力では成し遂げられなかった韓国は、 「千年恨」などと的外れの主張をして、「我々は日本によって酷い目に遭った」というストーリーを仕立て、国土を奪われ、文化を奪われ、 過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたと、自国にとって都合のいい史観(歴史の解釈)を並べ立てなんとしても日本を極悪人に仕立てようとしているのです。

 しかし、そんな嘘八百を並べ立て泣き言を言う前に、韓国は日本同様に独立国家としての気概を持ち、外国に支配されないよう自助努力で近代的国家樹立に邁進すべきだったのです。    日本は朝鮮を自主独立国にしようとしたというのは史実であり、それを自らブチ壊したのは韓国なのです。  今の韓国は 大韓帝国の近代化に尽力した日本の功績を素直に認め、 日本に併合された歴史を直視すべきなのです。(2024.12.20)




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