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日中戦争の第一幕....序章

 「日本は戦争を起こした国」という戦後史観にすっかり毒されてしまった多くの日本人は、「日中戦争」は日本軍が中国大陸に軍事侵攻し、中国正規軍とバチバチの戦争を繰り広げた、 というイメージを持つと思います。    しかし、この戦争は計画戦争どころか、かなり「なりゆき」の要素が強いもので、実際、 日本はたびたび和平工作を行っています。

 ところが、国民党を倒し中国支配を目論む中国共産党は、停戦協定が成立し戦争が終結しそうになると、 各地で日本人に対するテロ事件を起こし、日本軍を挑発し怒らせ戦争を長引かせたのです。  そのため和平交渉も不発に終わり、 拡大の一途をたどる支那事変(日中戦争)は、終結の見込みは立たず、 泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのです。

 この中国共産党の活動は、日本軍を挑発して軍事行動に駆り立て、国民党政府と戦わせるという コミンテルンの方針に基づいていました。  そこを日本は見抜けず、 日本はよせばいいのに「暴支膺懲(ぼうしようちょう・暴れる中国を懲らしめる)」をスローガンに、そんなところへノコノコ深入りしていき、内紛に巻き込まれていったのです。

 日本は、「日中戦争」は国家間戦争ではなかったので、支那事変(日支事変/日華事変とも)と呼んでいましたが、ここでは便宜上「日中戦争」で通します。   当時の中国は国内が統一されておらず、勢力争い(内戦)に明け暮れていました。       日本軍は短期間で首都を陥落させますが、その後長期にわたる治安戦で国力を消耗させていきます。  内情が複雑怪奇に入り乱れた「日中戦争」の中身を理解するのは大変ですが、 塩川正十郎元財務大臣の中国戦線回顧が、当時の「日中戦争」全体図を簡潔に表しています。

「.....八路軍(パーロ・共産党軍)と新四軍-これは毛沢東系とはちょっと違うやつ-と、重慶軍(国民党)と、 日本軍とが四つ巴になっとった。  ですから、 私が巡察で回りますと、 重慶軍から税金を取りに来るわけです。  その後、すぐまたパーロからも税金取りが来る。 どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。  日本軍はそんな税金は取ってませんから、 わりと歓迎されましたよ。   日本軍がおったら治安がええので。(中略)  支那事変の初期に『南京虐殺』があったかどうか知りませんけども、 私がいた部隊はそんなこと全然ありませんでした。    わりと安定してましたよ」(持たざる国への道・松本崇)

 辛亥革命以降の中国は、共産主義勢力の台頭や権力争いの激化、 さらに日本と中国の「日支共生」を阻む白人列強の介入で、泥沼の内戦状態となり、 孫文はスポンサーを日本からソビエトに乗り換えるなど、 事態は混迷の度を深め、日本が期待した中国三民主義の夢はどこかに吹っ飛び、 中国内部の政権争いに関与していた日本は用済みとされます。

 梯子を外され、いまさら後に引けなくなった日本が、当時の列強の作法に倣い中国権益確保に動いた、というのが日中戦争勃発の大まかな流れなのです。    もともと歴史とは、「どちらの立場から見たか」で180度見方が異なるものであり、どっちが正しかった・悪かったかは、勝者側になるか敗者側になるかで決定されます。

 当時の国際社会はルール無用の弱肉強食の世界がまかり通っていました。    日本などほんの数カ国以外の有色人種国家は、白人列強により植民地支配されていたのです。     お人好し日本人はここが理解できておらず、韓国を併合したのは可哀想、 満州を支配したのはやりすぎ、などと当時の世界情勢も知らずに日本を批判するわけです。

 敗戦国となった日本は、日中戦争においても徹底的な悪者とされてしまいました。  ここでは、前近代国家・中国に対し、当時の日本人たちが物心両面で多大な支援をしたこと、 中国が当初は日本を近代化の手本にしたことなど、日本が悲惨な戦争への道を辿る端緒となった中国を巡る様々な出来事を見ていきます。(2024.7.30)

   
   

日中戦争の黒幕・コミンテルンの存在

 日中戦争の本当の姿は、当時列強により半植民地支配されていた中国を、日本が近代的な統一国家として自立させ アジア諸国の自立を目指そうと支援したが、そこにコミンテルンや米国が介入し、 日中関係の分断・日本排斥運動を仕掛け、それによってハシゴを外されてしまった日本が、 ズルズルと日中戦争へと引きずり込まれていった、というものです。    「最初から中国侵略を狙っていた」などという プロパガンダに騙されてはいけません。

 これは、日本が韓国を併合した状況とかぶります。    アジア大陸の端にある小さな半島国家である朝鮮(現韓国)は、古代以来何百年にも渡り強大国家"シナ"の思惑に常に左右され、大きな影響を受け、 属国として扱われてきた"黒歴史"があります。   日本はその"シナ"を日清戦争で打ち負かし、 朝鮮をシナの頚木から解放し、 1885年、朝鮮を独立国家「大韓帝国」として設立させます。

 朝鮮が大韓帝国として国際社会で正式に独立国家として認められたのは、日本の尽力があったからという歴史があったのです。   しかし、せっかく日本の尽力により独立できた韓国でしたが、 その後南下政策を進めるロシアに急接近する親露派の政権が誕生します。      侵略者に喜んで尻尾を振る無節操さに危機感を抱いた日本は、止むを得ず国際社会の承認を得て、 1910年韓国併合条約を結び、韓国を併合することにしたのです。     もともと日本は韓国を最初から統治するつもりなど無かったのです。     日本が「韓国併合」へ舵を切ったのには、 それなりの理由があったのです。

 それを韓国は「日本に侵略された」と捻じ曲げた主張をしているわけです。   韓国の常識派の李栄薫(イ・ヨンフン)氏は、「韓国の近代化は(日本の尽力による) 無賃乗車で成し遂げられたもの」であり、 「国の独立も自力で成し遂げたものではない」、と韓国人には耳の痛い鋭い指摘をしています。   さらに、「日本の植民地時代に韓国が被った」とされる被害を全否定し、「日本統治時代は良かった」としています。

 閑話休題。   蒋介石としても最初から日本と対立一本やりではありませんでした。  しかし、国民党内部は常に内紛が頻発し、停戦協定 が日本と結ばれそうになると、各地で日本人に対するテロ事件を起こし日本軍を挑発するというように、 中国国内においては常に日本と国民党を対立させるテロが起きていたわけですが、これはコミンテルンの方針に基づいていました。

 なにせ、1930年代から1940年代にかけては、アメリカ政府機関どころか、アメリカ国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、出版社など、 アメリカ国内にさえ広範囲にソ連スパイが暗躍し、事実上ソ連に乗っ取られていた事が 「VENONA」によって判明しています。  コミンテルンは侮れない存在だったのです。(2024.7.30)

      
   

コミンテルンの謀略を見抜けなかった日本

 コミンテルンは国際的な対日包囲網をつくるための手段として、当時大勢の欧米人が暮らし利権が密集していた 上海に目をつけ、そこを戦火に巻き込み欧米人が日本軍により被害を受けたと世界中に拡散させ、 排日の機運を高めるなど、あの手この手の陽動作戦を仕掛けます。

 国民党と対峙する中国共産党としても、戦争で国民党を弱体化させ、代わりに勢力を伸ばし政権を握り、中国を共産化するという目的がありました。  当然、日本も戦争で疲弊すれば日本国内においても 共産主義革命の道が開けるわけで、いずれ極東アジア全域を共産化するのがコミンテルンの世界戦略だったのです。     米国駐ソ大使は1935年7月、「アメリカを日本との戦争に引きずり込むのがソ連政府の願望」と本国に知らせています。

 しかし、当時の日本政府はコミンテルンの謀略を見抜けませんでした。  「盧溝橋事件」から日中戦争へと拡大していた1940年2月、帝国議会に置いて民政党の代議士が 「何のためにこんな戦争を続けるのか。この戦争の目的は何か」と質問しますが、当時の米内内閣の大臣は誰一人この質問に答えられなかったといいます。    単に「横暴な支那を懲らしめる」として、戦争目的不明の泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのです。

 そもそも日本は中国領に侵略して支配しようとしたわけではありません。  満州権益確保のため動いた関東軍でさえ、それ以上の軍事行動は考えていませんでしたし、 日本政府も1938年から何度も和平提案を行っています。      しかも、和平交渉では中国領土の要求はしておらず、中国にとって不利なものではありませんでした。  しかし、コミンテルンに操られる国民党は拒否し続けたのです。

 ところが、 現代の日本社会では、欧米列強の植民地支配・人種差別からの脱却を目指すスローガンだった 『八紘一宇』を口にした途端、 デュープスたちから一斉に『日本が中国、 東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンだ』とヒステリックに非難され、問答無用で切り捨てられる社会がいまだに続いているのです。

 戦後の「戦争責任は全て日本にあるというプロパガンダ」は、 いまだに恐るべき威力を発揮しており、日本を開戦に追い込んだコミンテルンや米国の謀略は闇に葬られ封印されました。  先の戦争を 「日本の植民地支配と侵略」と断定した村山富市が中国を訪問した際、 「盧溝橋に行って昔を反省した」と中国共産党幹部に無邪気に話した 彼の無知さを笑える日本人は、そう多くありません。(2024.7.12)


  

中国進攻を正当化できないが、背景は誤解されている

 人類の歴史は戦争の歴史とされます。  近現代史においても、弱小国家は有無を言わせず強国の支配下におかれる運命が当たり前の時代が続いていたわけです。   21世紀においてさえ、 ロシアがウクライナに軍事侵攻しています。     強い民族が弱い民族を征服してきたのが人類の歴史であり、 相変わらず人類と戦争の縁はなかなか断ち切れないようです。

 戦争はどんな理由があろうが許される行為でないことは、古来より洋の東西を問わず人類が共有していた倫理観だったのでしょうが、現実が理想論を凌駕し、人類は悲惨な殺戮合戦を繰り広げてきたわけです。

 日本もご多分に漏れず、わずか半世紀の間に主なものでも、 「日清戦争・1894年(明治27年)」からはじまり、 「北清事変・1900年(明治33年)」、 「日露戦争・1905年(明治38年)」、 「第一次世界大戦・1914年(大正3年)」、 「シベリヤ出兵・1918年(大正7年)」、 「満州事変・1931年(昭和6年)」、 「支那事変・1937年(昭和12年)」、 「ノモンハン事件・1939年(昭和14年)」、 「大東亜戦争(太平洋戦争)・1941年(昭和16年)」 と激動の時代に曝されてきました。

 日本は支那事変(日中戦争)で中国大陸に進出していったわけですが、自存自衛のためとはいえ他国の主権を犯したのは事実であり、日中戦争における日本の行為を正当化はできません。    ただ、日本も中国国民党も本格的な戦争になるなどとは思っておらず、当初日本の目的は経済的利益の確保と居留民の保護だったのです。

 どんな物事にも事情はあります。  「日中戦争」は日本が米国相手の無謀な戦争「大東亜戦争(太平洋戦争)」へ引きずり込まれる序章となったわけですが、 そこには列強により半植民地となっていた中国を、 強固な統一政府を誕生させ連携すれば東亜の安定を図れると考えた日本が、物心両面で中国近代化を推し進めようと 「中国へ介入した」という背景がありました。  決して最初から軍事侵攻して支配しようなどとは考えてはいなかったのです。

 しかし、結局「中国民衆が国家統一に立ち上がる」のは幻想でした。  それどころか、コミンテルン共産主義の教育のもと、排日運動によって大勢の日本人が殺された挙句、 戦後は「日本は中国に軍事侵攻した」、「日本は中国人に残虐非道な行いをした」という、戦勝国の責任転嫁論「悪いのは全部日本」式のプロパガンダを、 甘んじて受け止めるような国家となり果てました。  どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか。

 そこには、戦後になり白人列強が「自分たちが有色人国家を植民地支配して蹂躙していた過去」を隠蔽するためにはスケープゴートが必要だったという事情がありました。    戦争が終結したからには過去を総括しなければなりません。  そうなると、 「列強による過酷な植民地支配」にも否応なく触れざるを得なくなります。(2024.7.30)

   
  

本当の歴史を知らされていない日本人

 第二次世界大戦終結によって平和が戻った世界秩序に、白人列強が過去行ってきた「武力で支配した有色人種から、資本も生産手段も教育機会もすべて奪い、 劣等人種とみなし人間扱いせず、現地人をしゃべる家畜 として奴隷としてこき使った」という実態が公に表ざたになるのは、絶対避ける必要がありました。

 「それまで二百年の長きにわたって有色人種を支配し、無敵で神のような存在と信じられてきた列強が、実際はそうでない ことを日本が全人類の面前で証明してしまった(トインビー)」戦後世界において、 自分たちの過去の残虐非道行為が槍玉に挙げられたら、世界中から大ブーイングを浴び、謝罪に追われ、莫大な賠償金を支払わなければならなくなります。

 そこで列強が思いついたのが、「日本に戦争責任を全て押し付ける」ことでした。   日本を悪者にして侵略国家に仕立て、世界中の視線を日本が仕出かした(ことにした)悪事に集中させれば、 自らのアジア支配は正当化され、自分達に批判が向くことを回避できます。  そうして狡猾な列強は日本バッシング作戦を開始します。

 そもそも、列強にとって日本という国は「自分たちを東アジアの地から追い払い、植民地支配の世界に終止符を打った」憎っくき国でした。     孫文も含めアジアの指導者たちは皆、日本に感謝していたのです。     しかも、戦後のアジア諸国には、日本が成し遂げた植民地支配からの解放戦が、各国の独立の機運を高めたため、 インドネシアやインドなどでは植民地支配からの解放戦争が活発化していました。

 このままでは敗戦国であるはずの日本が「有色人種のヒーロー扱い」にされかねません。 そこで白人列強は徹底的な「日本を悪者にするストーリー」を謀ります。     そして、裁判とは名ばかりの復讐劇だった東京裁判や 「WGIP」、 さらに日本のマスコミを支配し、徹底的に 「日本は戦争を起こした侵略国家」説を植え付けていったのです。     日本のメディアに左翼が多いのはGHQの占領政策が影響しているのです。

 結果、戦後の日本はGHQの目論見通り、全ての戦争責任を押し付けられ、就任する首相が国会の所信表明演説で 「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、 とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」 という村山談話継承を強いられるのが当然、 という悪しき慣習が当たり前になっています。

 このように、「植民地支配からの解放を成し遂げた」はずの日本は、 列強によって戦争責任をすべて押し付けられ戦争犯罪国家とされてしまったのです。   この事情をよく理解していないと「日本は侵略国家だった」という 悪しきプロパガンダに永遠に騙されたままです。

 そして今や、欧米による植民地支配の悪行は歴史の闇に葬られました。  それどころか、驚くべきことに現代の日本の学校教育において、 戦後に戦勝国が押し付けた「日本は戦争を起こした侵略国家」をベースにした教育が、21世紀においても行われているのです。   これでは日本人が日中戦争から大東亜戦争へ至る内情を 正しく知らされる術はありません。

 斯くして、日本人に残された日中戦争の歴史は、「日本は中国に軍事侵攻した」、「日本は中国人に残虐非道な行いをした」 という列強が無理やり日本人に植え付けた「悪いのは全部日本」という戦勝国の責任転嫁論だけとなりました。

 「歴史問題」いうコトバが独り歩きしていますが、 そもそも「歴史問題」なるものは存在しません。     あるのは「中国問題」と「韓国問題」だけであり、彼らが日本を口撃するため持ち出してくる数々の「歴史問題」とやらは、 ただの「架空の物語」に過ぎません。  明治維新以来170年の日本の近代化の歴史には光も影もありましたが、「歴史問題が解決しない」のは、 日本人が悪しきプロパガンダに騙され「本当の歴史を知らされていない」からです。   日本人は反日史観に惑わされずもっと客観的に歴史を認識すべきです。

 すべて日本が悪かったという現代の日本人を騙す 「トンデモ近現代史本」に惑わされることなく、 日本は最初から中国を支配しようなどとは考えてはいなかった、という予備知識を頭に入れておきながら、 泥沼の内戦に否応なく巻き込まれていった日本と、当時の中国事情を追々見ていきます。(2024.7.30)

   

「眠ったまま」だった清国

 1894年(明治27年)に起きた日清戦争前の清国は「眠れる獅子」 と言われていました。  これは強くて恐れられたというより、当時の中国を周りから見たとき、広大な土地と人口を有し、 長い歴史を誇る巨大な経済大国というイメージがあったため、言って見れば強そうだから恐れられていたわけです。

 18世紀末、イギリスの貴族や労働者は清の紅茶の余りの美味しさに虜となり夢中で買い求めたため、普通の貿易では採算が取れなくなり、 イギリスは代金代わりに大量のアヘンを輸出します。  依存性の強い麻薬は中国人を中毒者まみれにし、おまけに中国の銀まで奪ったのです。   これを止めさせようとした清と、密売を止めようとしないイギリスの間で起こったのが、1840年のアヘン戦争でした。    敗れた清はイギリスから香港の割譲上海や他の開港賠償金の支払いなど、屈辱的な条件を飲まされたのです。    ホンモノの「中国の屈辱」は「二十一カ条要求」のはるか前に起こっているのです。

 1840年のアヘン戦争で清国がイギリスに蹂躙される現状を知った日本は、1841年に天保の改革を開始しています。    1853年(嘉永6年)のペリーの黒船来航も重なり、 日本はいち早く西欧諸国の剛腕と覇権ぶりに危機感を抱き、一刻も早く西欧国民国家体制へ移行する必要があると認識し、その後、紆余曲折はあったものの、 明治維新を経て近代国家へと至りました。

 1863年の薩英戦争では、その前年に横浜港付近の生麦村で、薩摩の島津久光の行列を乱したとしてイギリス人が一人殺されたという理由だけで、すでに幕府から多額の賠償金を得ていたにもかかわらず、 7隻ものイギリス艦隊が薩摩沖に現れ、さらなる謝罪と賠償を要求。 従わなかったため鹿児島市街地の「10分の1」が火の海にされています。

 西洋文明における強国の条件とは、軍事力や経済力は当然として、外交力も兼ね備えている必要がありました。  「一人の国民の権利を守るのが主権国家」という文明の論理を、 日本は見せつけられ学び受容しました。  しかし、ごく一部のものだけが特権を独占する文化圏の清国は、 これを理解できず、西洋列挙の成すがまま、時代に流されていったのです。

 中国四千年の歴史などされますが、実態は古代以来、万里の長城の内部で抗争を繰り広げ王朝交代を繰り返す中で、漢民族と周辺諸民族が混ざり合ってきたのが支那の歴史であり、 純粋な漢民族は三国時代にもう死滅していたのです。

 軍事力の劣勢と旧体制の弛緩ぶりは日本も清国も似たようなものでしたが、日本は西洋以上の国民国家樹立に向けて邁進していったのに比べ、 アジア世界の中心・中華秩序の世界しか見ていなかった支那は、 愛国者は迫害し帝国の枠組みに胡坐をかき、惰眠をむさぼっていたのです。  その結果、諸外国の介入を招き 列強の「半植民地」とされ、国内は内戦に明け暮れていったのです。(2024.8.24)

   

最初に中国に侵攻していたのは列強

 戦後の日本人は、「日本は中国大陸に軍事侵攻した」と教え込まれましたが、日本よりずっと前に中国に進出し、 中国を半植民地支配していたのは西洋列強だったことを忘れてはいけません。  そもそも、日支共生を掲げていた日本は、中国を侵略するどころか、 日清戦争以降は中国と互いに手を結び西洋列強に立ち向かおうと、物心両面で多大な貢献をした国です。

 日清戦争で敗北し遼東半島を日本にとられた清王朝でしたが、満州進出を目論むロシアがフランス、ドイツと手を組んだ 「三国干渉」によって取り戻すことができました。  しかし、 列強はその見返りとしてロシアは(大連)、イギリスは(威海衛および香港外側の新界)、 フランスは(広州湾)というように、強引に租借地を獲得していったのです。   「張り子の獅子」だったことがバレた清王朝は 列強の食い物にされ半植民地状態に置かれていったのです。

 ドイツ帝国も1897年11月1日、山東省西部の巨野県でドイツ人宣教師二人が殺されたことを契機に、「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実のもと膠州湾を占領し、3月6日、独清条約を結び、 膠州湾を99年間清国政府から租借しています。  中国各地で99年間租借が行われたわけですが、因みに99は「永久に」という意味です。

 中国進出の気運が高まっていたアメリカも、中国において他国と同等の特権を得る動きを強め、アメリカ資本は中国市場への進出を積極的に行っていきます。  さらに、 中国進出を日本に独占させないよう様々な形で日本に制限を加える動きを強めていくようになります。

 後年、第一時世界大戦で連合国側についた日本がドイツ権益を譲られた際、 二十一カ条の要求で南満州の権益を99年間延長したことを、 まるで史上最悪の略奪行為であるかのように批判する向きもいますが、当時の西欧列強が行なっていた支配と比較しても決して過度なものではありません。

 ところが、日本の近現代史本は、「列強は利権を持っていた」としておきながら、日本の行為は「日本は利権を奪った」と歪曲しているものが大部分です。     列強の植民地支配の歴史は封印され、植民地支配からの解放を成し遂げた日本は、一方的に悪者にされているわけですが、 戦後の「日本は戦争犯罪国」というプロパガンダに支配されてしまった日本人は、これに一切反論しません。

 辛亥革命後の中国に対し、共に協力して列強に立ち向かおうと国民党を支援していた日本でしたが、その後の国民党は混沌とする権力争いの中、ソ連コミンテルンに頼り 「容共抗日」へ徐々にシフトしていきます。   さらに、中国大陸に勢力を拡大する日本に危機感を抱き排除を決めた米国が、 日本切り崩しを図り多額の資金や飛行隊など軍備を提供したことから、国民党は「徹底抗日」へ態度を180度変えます。(2024.7.12)


 

西欧列強の中国進出はなぜ非難されないのか

 戦線が拡大し華北の主な鉄道沿線都市が日本の占領下に入った1938年11月以降、北支那開発株式会社、華北交通、華北電信、電話、華北石炭など日系企業が次々に設立され、 そこに従事する日本人も増加し、1940年7月には30万人を突破するまでに居留民人口が増大します。

 これに伴い、各地で勃発する「排日暴動」を鎮圧し日本人を守るため、日本軍がますます華北内部へ進攻し、 それがさらに中国人の「反日感情に火をつける」というイタチごっこ化していったのです。

 華北(かほく・中国北部の呼称)への日本軍進出について、ヘレン・ミアーズ氏は、「イギリスとの話し合いで華北に一定の権利を確保するということであり、 西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なものではなかった」としています。     当時は日英米伊仏といった西洋列強によって中国大陸は半植民地支配されていた事実を忘れてはいけません。

 各国とも居留民の警護を目的とする軍を駐留させており、日本軍だけ居座っていたわけではありません。  1900年(明治33年)6月の義和団事件では、 義和団に包囲された各国公使館は北京籠城を余儀なくされますが、 日本軍は暴徒を寄せ付けず大活躍します。   この事件は日本兵の優秀な資質を世界に知らしめるきっかけとなり、日本人に対する西洋人の見方を大きく変えさせ、 日本とイギリスが結んだ軍事同盟(日英同盟)へ繋がったともされます。

 中国大陸を半植民地支配していた西洋列強には寛容なのに、日本がやったことは全て悪いとする悪しき反日史観は、 戦勝国側によって作られたプロパガンダに騙された誤解なのです。   何世紀にもわたり有色人種を支配してきた白人国家は、支配してきた地域に白人は絶対であるという「白人至上主義」を植え付けてきたため、 白人がやったことについては面と向かって批判しにくいという負い目が刷り込まれている一方で、自分達と同じ有色人種のくせに、白人と同じ行為をする日本に対しては、 絶対許せないという気持ちが働くのでしょう。

 そもそも、中国は西洋列強によってアヘン中毒者だらけにされ、半植民地支配されていたのに、その西洋列強は「利権を持っていた」とされ、 列強が支配していた利権を苦労して手にした日本は「利権を奪った」と断罪される、というのもおかしな話であり、 これこそが戦後戦勝国が仕掛けた 「日本だけ悪者にするプロパガンダ」の成果なのです。      ここをお人好し日本人は理解できていないのです。  だから、「日中戦争は全て日本が悪かった」としか考えないのです。(2024.7.17)


   

日中戦争の背後にあったもの

 日中戦争の引き金になったとされる、1937年(昭和12年)7月7日夜に起こった「盧溝橋事件」ですが、 当初日本軍は中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断し、 それ以上の事態拡大は考えていませんでした。  ところが、事件翌日、中国共産党は日本との開戦を主張する声明文を出しています。  あまりにも手際が良すぎる話ですが、 この背後にはコミンテルンの存在があったのです。  コミンテルンとは、1919年にソ連共産党を中心に結成された国際共産党のことで、共産主義を唱え世界共産革命を目論む組織です。

 蒋介石は最初から日本と対立一本やりではありませんでしたが、国民党内部は常に内紛が頻発し、停戦協定が日本と結ばれそうになると、 各地で日本人に対するテロ事件を起こし日本軍を挑発するというように、 中国共産党は日本と国民党を常に対立させようと活動したわけですが、これはコミンテルンの方針に基づいていたのです。

 中国共産党としても、戦争で国民党を弱体化させ、代わりに勢力を伸ばし政権を握り、中国を共産化するという目的がありました。  当然、日本も戦争で疲弊すれば日本国内においても 共産主義革命の道が開けるわけで、いずれ極東アジア全域を共産化するのがコミンテルンの世界戦略だったのです。     米国駐ソ大使は1935年7月、「アメリカを日本との戦争に引きずり込むのがソ連政府の願望」と本国に知らせています。

 コミンテルンは国際的な対日包囲網をつくるための手段として、当時大勢の欧米人が暮らし利権が密集していた 上海に目をつけ、そこを戦火に巻き込み欧米人が日本軍により被害を受けたと世界中に拡散させ、 排日の機運を高めさせるよう仕向けたのです。

 しかし、当時の日本政府はコミンテルンの謀略を見抜けませんでした。  「盧溝橋事件」から日中戦争へと拡大していた1940年2月、帝国議会に置いて民政党の代議士が 「何のためにこんな戦争を続けるのか。この戦争の目的は何か」と質問しますが、当時の米内内閣の大臣は誰一人この質問に答えられなかったといいます。    単に「横暴な支那を懲らしめる」として、戦争目的不明の泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのです。

 そもそも日本は中国領に侵略して支配しようとしたわけではありません。  満州権益確保のため動いた関東軍でさえ、それ以上の軍事行動は考えていませんでしたし、 日本政府も1938年から何度も和平提案を行っています。      しかも、和平交渉では中国領土の要求はしておらず、中国にとって不利なものではありませんでした。  しかし、コミンテルンに操られる国民党は拒否し続けたのです。

 当時列強により半植民地支配されていた中国を、アジア自立を目指す日本が独立させようと支援していたが、 コミンテルンや米国が仕掛ける日中関係の分断・日本排斥運動 によってハシゴを外されてしまった結果、 ズルズルと日中戦争へと引きずり込まれていった、というのが日中戦争の本当の姿なのです。  ところが、 欧米列強の植民地支配・人種差別からの脱却を目指したスローガンである 『八紘一宇』を口にした途端、 デュープスたちから一斉に『日本が中国、 東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンだ』とヒステリックに非難され、問答無用で切り捨てられる社会がいまだに続いているのです。

 戦後の「戦争責任は全て日本にあるというプロパガンダ」は、いまだに恐るべき威力を発揮しており、日本を開戦に追い込んだコミンテルンや米国の謀略は、 闇に葬られ封印されました。  先の戦争を「日本の植民地支配と侵略」 と断定した村山富市が中国を訪問した際、 「盧溝橋に行って昔を反省した」と中国共産党幹部に無邪気に話した 彼の無知さを笑える日本人は、そう多くありません。(2024.7.12)


 

戦後賠償を一切要求しなかった蒋介石

 当時の中国事情を見ていく前に、我々日本人が是非知っておくべき事実があります。   それは戦後「中国が日本に対し戦後賠償を一切要求しなかった」ことです。     戦勝国が敗戦国に何らかの賠償を求めるのは世界の常識ですが、この中国のやり方はいまだに謎とされています。

 ただ、勘違いしてはいけません。  この時の中国指導者は国民党の蒋介石で、実は、 蒋介石は日本軍支那派遣軍総司令官を無罪にした人物でもあります。    もし、現代の時代錯誤の超侵略国家・中国共産党が主導権を握っていたとしたら、 賠償金どころか身ぐるみはがされ、ヘタしたら中国共産党に併合され、 自由とは無縁の不自由な統制社会で暮らししていたハズです。

 終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたとされますが、 蒋介石率いる中華民国側は日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を、 可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てた、といいます。

 そのため、日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げは10ヶ月で完了します。  衆議院議員の大久保伝蔵は引揚の受け入れ港の視察で南方や満州、 朝鮮からの引揚者が裸同然だったのに対して中国本土からの引揚者はそのようなことがなく、手荷物を持っていたことに驚いたといいます。

 これらの事実を知ると、果たして「日本は本当に中国に侵略戦争を仕掛けた」のか、「中国人を無差別に惨殺したとされる日中戦争の中身」は、果たして事実だったのかという疑念が沸くはずです。

 たしかに、日中戦争のある時点では、国民党と日本軍はガチンコの戦いを行いましたが、もともと日本は中国統一国家樹立のため物心両面で国民党を支援していました。  日本の思いは その後コミンテルンやアメリカの妨害で日支共生は実現しませんでしたが、蒋介石は東亜安定を願う日本の真意と努力を理解していたのでしょう。

 蒋介石は満州における日本の権益に対しても、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、 満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」として認めていました。    戦後賠償を一切要求しなかったことといい、 蒋介石は日本に対し特別の思いを抱いていた良き理解者だったのかもしれません。

 これらを踏まえれば、「恨みに報いるに徳をもってす」の蒋介石は、決して日本を敵視してはおらず、互いに思うところはあったわけです。    この予備知識があると日中戦争における日本軍と国民党の関係や中身について、 少しは見方が変わるかもしれません。  いずれにせよ「日本は中国を支配するため軍事侵略した」などという話は 戦後に生み出されたプロパガンダであり、騙されてはいけません。

 日本と蒋介石の関係には、戦後さらに数奇な運命があります。 中国共産党との内戦に破れた国民党は 台湾に逃れますが、台湾奪還を試みた中国共産党は、1949年10月24日、 台湾海峡の金門島に攻撃を仕掛けます。

 このとき台湾防衛に貢献した日本人(根本博)がいます。     台湾防衛軍を指揮する根本氏は、巧みな指揮で群がる中国軍を蹴散らし、金門島防衛に成功したのです。    根本博氏は終戦時の中国引き上げ時の司令官であり、恩を返したわけです。   このような経緯もあってか、現代の台湾は超親日国家です。(2024.7.30)

   
 

孫文の「辛亥革命支援」に尽力した日本人たち

 ここからは「日中戦争」の導入部ともいうべき「日本人の辛亥革命支援」から見ていきます。  今ではなりふり構わず覇権主義を丸出しにして、南シナ海、東シナ海で傍若無人の威嚇行動を繰り広げている 時代錯誤の超侵略国家中国ですが、明治時代の中国(当時は清)は、アヘン戦争や 日清戦争に敗れたことで、 半植民地状態にされています。

 1905年(明治38)に東京で「中国同盟会」を結成した孫文は、「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」を革命のスローガンに「三民主義」を提唱します。  「民族主義」は、満州族が支配する清朝の支配を打倒し、 帝国主義列強の圧迫を排除し、漢民族の独立を図ること。  「民権主義」はいまでいうデモクラシー。 「民生主義」は、分配を公平にして民衆の生活を安定させる、ということでした。

 列強による植民地支配の嵐が吹き荒れていた時代、このような理念を掲げる孫文に期待した大勢の日本人は、 半植民地支配されていた中国を統一国家にして、共に手を結び東亜の安定化を図ろうと、 孫文の「辛亥革命支援」に尽力します。  当時の日本人たちは孫文も自分たちと同じ信義誠実の民族と考えたのです。  しかし、やはり孫文は相互に相手方を信頼し、誠実に行動し、 裏切らないようにするという原則とは無縁の民族でした。    その後、日本はアッサリ裏切られていくわけですが、 それが露呈するのはこのずっと後になります。  そもそも、孫文が最初に支援を頼んだのはアメリカで日本はイギリスの次でした。

 明治維新を成し遂げた日本を手本に、中国の三民主義を図る孫文は、1911年に湖北(こほく)省の武昌(ぶしょう)で武装蜂起し、 軍内部の革命派も巻き込み、1912年1月1日、南京を首都においた中華民国臨時政府が建国されます。  孫文は臨時大総統となります。

 清王朝はこの(辛亥革命)を鎮圧するため、実力軍人・袁世凱(えんせいがい)を鎮圧に向かわせますが、 袁世凱は孫文に「清王朝の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を終わらせる代わりに自分を中華民国の大総統にする」という取引を持ち掛けます。  袁世凱に太刀打ちできる軍事力はない孫文は、 この取引に仕方なく応じ大総統の座を袁世凱に明け渡します。   袁は約束通り皇帝を退位させ、清王朝は滅亡します。

 袁世凱に権力を奪われた孫文は、その後、反袁世凱の二次革命を試み、多くの日本人志士も参加しますが、結局破れ、1913年から1916年までの約3年間、再び日本へ亡命しています。     当時は、孫文が掲げる中国三民主義を支援するため、大勢の日本人が革命を支援していたのです。(2024.8.3)

   

孫文の評価

 日本に散々世話になったはずの孫文は、中華革命党が国民党に改編された1924年1月、それまでの主義を捨て、ソビエト政府に援助してもらい、 中国共産党との連繋(第1次国共合作)に踏み切り、 共産党員の中国国民党への加入を認めるなど、容共反日へとアッサリ宗旨替えしています。

 この共産主義を容認する孫文の変貌ぶりは、それまで、孫文の三民主義を信じ、物心両面で多大な支援をしてきた日本人たちに対する裏切り行為ともいえるもので、 孫文に対し日本の支援者たちは皆憤りますが、最大のスポンサーの一人だった梅屋は「革命の目的である共和制を実現しようと、中国のためにやったはずだ」と理解を示したといいます。

 日本人から散々支援を受け、三民主義を唱えていたはずの孫文は、 あっさりスポンサーを日本からソビエトに乗り換えたわけですが、いずれにせよ、 これまで孫文が唱える三民主義に期待し多額の資金援助を行い、近代的軍隊創設にも物心両面で協力してきたのに、 突然ハシゴを外されてしまった日本は、このままでは立場がありません。      そこで日本は列強だけに中国利権を独り占めさせるわけにはいかないと積極的に中国へ介入していった、という事情が日中戦争の背景にあったのです。

 孫文に関しては、「口先だけの革命浪人」という辛辣な見方があります。   たしかに、孫文がかかわった革命で成功したものはありませんし、生前に彼が中国人同志に期待されたものは、彼が集める金だったともいわれます。     幣原喜重郎外相などは「あいつは言うことがコロコロ変わるから相手にしない」とまで言い切っています。

 孫文は隙あらば誰彼構わず支援を引き出そうとしていたのは確かだったようです。  国共合作の直前には「中国統一にアメリカが絡んでほしい」とまで言ったとされます。    ただ、ソ連に対しては援助は貰うが共産主義だけは受け入れない、というのは譲らなかったとされます。   現在は、「国父」、「中国近代革命の父」と讃えられる孫文ですが、 辛亥革命に献身して犠牲となった大勢の日本人がいた事実は、現代の反日一色に染まっている中国の歴史から抹殺され、 日本でも一般的に知られる話ではなくなっています。

 ただ、孫文は死の前年に『建国大綱』という国家プランを掲げています。  それによれば一党独裁の中国共産党と全く異なり「国民政府は最後に解消し、民選の政府に権力を譲る」としていたといいます。    志は高かったわけです。

 ここからは、辛亥革命以降、中国内で繰り広げられていく権力闘争、そこに巻き込まれていく日本、満州権益を狙う米国の「日本潰し」、さらに、 白人列強に倣い、勢力拡大に突き進んだ、日本軍に巣食う一部の軍国主義者たちの暴走、といった様々な動きを追いながら、 「米国との戦いの遠因となった中国権益を巡る攻防」を見ていきたいと思います。(2024.7.10)


 

中国に多額の軍備整備費用を供出した日本

 孫文を追い払い大総統となった袁世凱は、首都を南京から袁世凱の勢力基盤である北京に移し、革命勢力を弾圧して専制政治を始めるようになります。     袁世凱死後の1917年、国務総理として実権を握った段祺瑞(だん きずい)は、世界大戦参加を決めますが、当時の寺内内閣は、 この参戦を機に中国に強固な統一政府が誕生すれば、 日本と連携して東亜の安定を図れるとの方針から、軍備整備の費用として2000万円に上る借款に応じます。    親日派とされた段祺瑞は中国での評判は決してよくありませんが、その人格の高潔さは孫文と並び称されています。

 この費用供出の背景には、袁世凱の軍事顧問だった坂西の、「当時の中国にあるのは親分子分の関係でできている私兵だけで、国家の軍隊がない。  世界大戦に参戦しても名目だけになるから、 この際中央政府の軍隊を創設すべきだ」という意見がありました。(世界から絶賛される日本人・黄文雄)

 こうして創設された世界大戦参戦軍(辺防軍)は、それまでの中国には見られない、正真正銘の国軍となり、近代的軍隊に仕上がっていったのです。  その後、中国国内の軍閥戦争により、 坂西が手塩にかけ育て上げた辺防軍は解体されてしまいます。   しかし、その過程においては、多くの優秀で知日的な軍幹部が育てられました。

 興味深いことに、坂西はずっと北京政府に寄り添ったわけですが、北京政府に対立する南京革命派にも、日本人軍事顧問が入り込んでおり、日本人同士でも意見の対立があったといいます。   坂西は1926年に軍事顧問を辞しますが、満州国創立後に、「満州国民が台湾先住民のようになれば、支那全土では満州を羨むようになる」として、日本が中国の先輩として大事に指導していけば、 やがて排日という中国人の感情問題も解決するだろうとしています。   当時から「抗日」の動きはあったわけです。

 このように、当時の日本人は「中国を侵略し支配しよう」などとは露ほども考えておらず、一刻も早く中国を近代国家として育成し、 アジアの盟友として西欧列強に立ち向かおうと奮闘したわけです。

 しかし、日本側の意に反し中国では権力争いが絶えません。   例えば革命後の実権を握った袁世凱としても、 孫文などの第二革命を抑えようとして外国の援助を受けたため、外国の要求に妥協せざるを立場になったりと、中国統一には様々な問題や思惑が入り乱れていたのです。

 最終的にはコミンテルンやアメリカの介入によって日中対立へと進んでいくことになるわけですが、 戦後敗戦国となった日本は、中国に貢献した功績は全て闇に葬られ、日本は中国に侵略戦争を仕掛けた、 というプロパガンダに曝されているのです。(2024.7.10)


  

中国「半植民地状態」地図

 これは日中戦争時の中国を巡る列強の勢力図ですが、広大な中国大陸は三国干渉の後、清国が列強に気を許したすきに、彼らはハゲタカのように清国領土に襲い掛かり、 白人列強により半植民地状態にされていました。

 列強が競って中国を食い物にしていた当時の勢力図を見れば、当時の日本が、いつそれが自分の身に降りかかってくるか、指をくわえて放置して置ける状況では到底無かったことが窺えます。    戦後の日本は「中国に軍事侵攻した」とされていますが、列強に乗り遅れ自分も中国と同じ運命を辿るわけにはいかなかったのです。(出典 「世界の歴史マップ」)

ロシアは1898年、遼東半島の旅順、大連を租借し、東清鉄道の施設権も獲得、満洲を併呑(へいどん・強国が弱国を勢力下におく)。

ドイツは、1897年に宣教師殺害を理由に膠州湾を占領し翌年に租借。  山東省を支配します。

フランスは1899年に広州湾一帯を租借しています。

イギリスは1898年に九竜半島北部地域(新界)を租借。(2024.7.29)





  

列強の「半植民地状態」にされた中国

 日清戦争に勝利した日本でしたが、 列強は「日本にヘタに中国権益を持たせてしまえば、白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」として、 せっかく手にした遼東半島権益を強引に日本から奪い清国に返還させます。  このように日本は何度も列強の妨害によって苦渋を飲まされたのです。

 当時の日本はこれを拒否できるだけの軍事力は持っておらず、イギリスに介入してくれるよう期待しますが、 その意思がないと知り 涙を飲んで返還します。    これに憤る日本国民は、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん・目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること)』をスローガンに、 軍事力強化にまい進していくことになります。

 列強が親切心何の見返りも求めず口出しするハズはありません。  日清戦争の敗北で清国の負った対日賠償金の借款供与を申し出たロシア、フランス、ドイツは、 この機会を利用し清に見返りを求めます。   そして、その担保条件として港湾の租借や鉄道敷設権を求め、さらに中国各地に列強自らが独占的に利権を持つ範囲を拡大していったのです。

 ロシアは1898年、遼東半島が返還されるや清国からすぐ遼東半島の旅順、大連を租借します。  さらに、急速に極東への進出(南下政策)を強化、 満洲を併呑(へいどん・強国が弱国を勢力下におく)し、東清鉄道の施設権も獲得、朝鮮半島にまで勢力を伸ばしていきます。

 ドイツは、1897年(明治30年)に宣教師殺害を理由に青島を含む膠州湾一帯を占領し翌年に租借。  山東省を支配し湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊を配備します。     フランスは1899年に広州湾一帯を租借しています。  イギリスは1898年に九竜半島北部地域(新界)を租借します。     こうして中国は列強の食い物にされていきます。     いわば、借金のカタに「半植民地状態」にされてしまったのです。

 日本は、日清戦争に勝利したはずなのに、列強に対抗できる軍事力を持たないため、かろうじて防衛上最低限の要求として、新規獲得した台湾のすぐ隣にある福建省を他国に租借、 割譲することがない旨の約束を取り付けただけでした。    当時も今も、力の弱いものは強い者に服従させられる真理は変わりません。

 お人好し日本人には理解できないでしょうが、当時は『生きるか死ぬか』の無法時代で、『盗ったもの勝ち』のルールが当たり前だったのです。  強い者が弱い物から身ぐるみ奪い去っていたのが、 当時の植民地支配合戦の列強の作法であり、歴史を善悪で判断したら過去の戦争勝利者はぜんぶ悪人です。

 戦後の「日本人を騙すトンデモ近現代史本」は「日本が中国に入り込んだのはケシカラン」 という論調一本やりですが、当時の弱肉強食時代ではこのような丁々発止の駆け引きは当たり前であり、日本を責めるなら同時に列強も批判すべきでしょう。

 「トンデモ近現代史本」著者に、もしそういう思考が出来たなら、戦後史は日本悪玉論一本やりではない、もう少し公正な見方がなされたはずでした。   しかし、 戦勝国が戦後の日本人にそう考えさせないよう、洗脳教育でガッチリ「日本だけ悪い説」を植え付けたのです。   そのため、 強い民族が弱い民族を征服してきた 人類の歴史に、日本が植民地支配や人種差別に終止符を打った という史実があるのに、その功績は闇に葬られました。  それどころか「戦争を引き起こした悪い国」というレッテルを張られたのです。(2024.7.29)


  

日中戦争の大まかなストーリー

 弱肉強食の植民地支配合戦が繰り広げられていた当時、日本は列強により半植民地となっていた清 を統一国家にして独立させ連携すれば東亜(東アジア地域)の安定化を図れると考え、「辛亥革命」を物心両面で支え中国近代化を推し進めます。

 清朝は1905年に科挙を廃止し、日本に大量の留学生を送り、日本の明治維新を手本として、憲法改正、国会開設といった大改革を進めます。  当初は中国(清)も、 日本を近代化の手本にしようとしていたのです。  ただ、辛亥革命で清朝が倒されて以降、 派閥争いの混乱によって、それまでのような国家単位の取り組みが失われていったのも事実で、ここに巻き込まれていった日本にとっても悲劇でした。

 その後、第一次世界大戦でドイツに勝利した日本は中国大陸進出への足がかりを築きます。    さらに日本は中国軍閥が抱える私兵ではない正真正銘の中国・国軍創設を、物心両面で支援します。   ここまでが、本章日中戦争の序章です。

 第一幕では、国民党の敵は日本ではなく「中国共産党」だったこと、 しかし、日中戦争の分岐点ともいうべき「西安事件」により 蒋介石が「一致抗日」を迫られた末、厄介な共産勢力との協力関係を受け入れざるを得ない立場となったこと、 それにつれ、日本は日中戦争の本当の姿を見失ってしまっこと、国民党内部の権力争いなど見ていきます。

 第二幕では、第一次世界大戦でドイツに勝利し 中国大陸進出への足がかりを得た日本が、その後列強による「日支共生」の妨害やコミンテルンの切り崩し工作により、あっさり用済みとされていく様子を追います。     内戦状態の中国を革命実現の有望地と看做していたコミンテルンは、共産勢力を育て、「反日・排日」のスローガンを掲げさせ、混乱に乗じ 革命のチャンスを掴もうとしていました。

 当初孫文は三民主義を唱え共産勢力と無縁の統一国家創建を目指していたはずで、だからこそ日本人が多大な支援をしていたはずの孫文が、コミンテルンの謀略に嵌まり、それまでの主義を捨て、 ソビエトとつるんだり、中国共産党と連繋するなど、相手かまわず自分にとって都合のいい相手と組み、容共反日へとアッサリ宗旨替えしていきます。

 北東アジア制覇を目論むソ連にとっても、勢力争いの相手である日本は、 日露戦争で敗北を喫したほどの警戒すべき相手でした。   もし日本が支援する国民党中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、 日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、それを警戒したソ連は、なんとしても日支共生の動きを阻止する必要があったのです。

 中国進出に出遅れたアメリカにとっても、日本の存在は邪魔者以外の何物でもありません。  そこでアメリカは日本の排除を図り反日勢力に対し支援を惜しみません。      アメリカはすでに開戦前から対日戦に踏み切っていたのです。    これにより、国民党は当初の日本と手を組み共産主義を打倒する「容日反共」から、真逆の「容共反日」へと立場を変え、 用済みとなった日本はそのあおりでアッサリ梯子を外されます。  ここまでが日中戦争の第二幕です。     この第二幕が「日中戦争のキモ」と言えますが、 「トンデモ近現代史本」でここに触れているものはアリマセン。(2024.8.3)

   
  

日中戦争の大まかなストーリー・その2

 第三幕では、中国国民党を中心とした混迷する勢力争いと多発するテロを見ていきます。    当時多数の日本人が中国各地に工場や店を作り進出していましたが、コミンテルンの扇動によって日本排斥運動が激しさを増し、 あちこちで日本人が虐殺される事件が多発するようになります。

 それを征伐・保護しようとする日本軍は、自国民保護のため中国各地へと進攻せざるを得なくなり、結果、国民党や共産党軍、ゲリラとの軍事衝突も増えていきます。  すると民衆はますます排日へと騒ぐ、という悪循環が起こります。    まさに、コミンテルンや反日勢力の思う壺となっていったわけです。

 このように、当時の中国情勢というものは反日勢力が大衆を扇動して排日運動を焚きつけ日本人を襲撃させ、日本軍を挑発して軍事行動を拡散させておき、 国際的にはその日本軍の行動を針小棒大にした演出を行い、 上海爆撃事件は日本のせいにデッチあげられ、 重慶爆撃は世界戦史上空前の無差別爆撃と批判され、世界中に「日本は侵略国家説」を拡散させていったのです。

 この背景には、コミンテルンの民衆扇動があったわけです。  孫文死後も、中国共産化を狙うコミンテルンはテロを拡大させていきますが、1927年の蒋介石による上海クーデターで一旦は鳴りを潜めます。     中国内の紛争の背後には、中国の共産化を図るコミンテルンと、 中国権益を狙うアメリカが陰に陽に中国に介入していたことがあったのです。

 第四幕では、 北伐の過程で日本との対決を決意した蒋介石との間で戦いが激化し、 やがて満州権益をめぐる衝突から、盧溝橋事件が勃発し、 その後泥沼化の日中戦争へと進むにつれ 「日本がもはや戦争の目的を見失っていた」ことや、 「ドイツが和平工作を仲介したこと」、 「粘り強く日中和平工作を図った」が失敗に終わったことなど見ていきます。   そもそも和平は中国の背後にいるアメリカやコミンテルンが容認するはずはなかったのです。

 日本はますます孤立していきます。  そして、いよいよ最終章アメリカとの直接対立です。   国民党は中国奥深くの重慶へ逃げ込み持久戦を図ります。    それを支援していたのがアメリカなど列強でした。   日中戦争は出口の見えない長期戦の膠着状態となっていましたが、 日本はなんとかその状況を打開しようと、列強による重慶への補給路を断つため北部仏印に進駐します。   それを待ってましたとばかりにアメリカが日本抹殺に動き、 大東亜戦争へ突っ走るのです。

 ここに輪をかけたのが、日本帝国陸軍に巣食っていた、 天皇の意向さえ無視する一部の過激な軍国主義者たちの暴走でした。  いずれにせよ、 「先の戦争は、戦争に駆り立てた軍部が、 戦時指導者が悪かった」などという単純な見立てで総括してしまったら、 「日本だけを悪者にしておきたい」反日主義者たちの思う壺です。(2024.7.30)

   


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関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






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