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国民党の敵は日本ではなく「中国共産党」だった

 清朝が辛亥革命によって倒されたあと、中国は誰が政権を握るか、各地の軍閥が入り乱れた混乱期となったわけですが、日本が期待して支援していたのが孫文の国民党でした。    それに対立していたのが中国共産党です。   ただ、中国共産党は「地主を倒せ」というような単純な階級闘争を主張していただけで、 国民の支持はなかなか得られず、共産党は泣かず飛ばすの勢力でした。

 その中国共産党に食い込んでいったのがソ連コミンテルンでした。 コミンテルンとは、1919年にソ連共産党を中心に結成された国際共産党のことで、共産主義を唱え世界共産革命を目論む組織です。     内戦状態の中国を革命実現の有望地と看做したコミンテルンは、「人間とその思想は改造できる」という妄想のもと、「貧者を救う救済の思想」の触れ込みで、 人々の人間性を破壊し洗脳していきます。

 貧しかった中国大衆に、「貧富の差があり搾取が当たり前の資本主義」よりも、 口当たりのいい、「資本主義を克服した平等で自由な社会」を標榜する社会主義、共産主義を吹き込み、共産勢力を育て、 共通のスローガンとして「反日・排日」を掲げさせ、混乱に乗じ共産革命のチャンスを掴もうとしたのです。

 北東アジア制覇を目論むソ連にとっても、日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、 日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、それを警戒したソ連は、なんとしても日支共生の動きを阻止する必要がありました。

 そこでコミンテルンは民衆を扇動した「抗日運動」を広め、「日本との戦いのため共闘しよう」という大義名分を創り出し、国民党と協力関係になるよう目論みます。     それまで国民党との内戦では劣勢だった中国共産党でしたが、この戦略で共闘関係となり、さらに階級闘争も一時的にやめたことで、中国内指導者グループの一角にまんまと割り込むことに成功します。    これが国民党と共産党が手を組んだ「第一次国共合作」です。

 ただ、右派・左派の呉越同舟では一致団結というわけにもいかず、国民内部は常に混乱と権力争いが頻発していったのは当然でした。  蒋介石に代わって実権を握りたい中国共産党は、 一発勝負をかけます。  資本家に虐げられている労働者が多くいる上海に目をつけ、ここを共産主義革命の大事な拠点とするため武装暴動を計画します。(上海デモ)

 これに成功すれば、各地の共産勢力を結集させられ、さらに大衆も味方につければ、一気に中国は共産党支配の国家誕生への道が開けます。  しかし、これを察知した蒋介石は、 国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ、武装する共産党員に武装解除を命じます。  共産党員はこれを拒否。   蒋介石打倒を掲げる共産勢力と、これを排除しようとする蒋介石との間で争いが起こり、 多くの死傷者が出ます。  これが1927年4月の上海クーデターです。

 この騒動で中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻。   清党(共産党員の粛清)が開始され、共産党の有力者が次々に処刑されます。(白色テロ)  上海クーデターが失敗に終わり敗北した中国共産党は、 大きなダメージを受けました。(2024.7.30)

   
  

中国共産党の殲滅を図った蒋介石・国民党

 「三民主義」を掲げ、「民生主義」いわゆるデモクラシー社会を目指す国民党にとって、中国共産党は抹殺すべき政敵です。   1930年代は、国民党による中国共産党・包囲殲滅戦が各地で展開されていきます。

 国民党は「中華ソビエト共和国」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し、「囲剿(悪者を囲み滅ぼすの意)」と称し、攻勢を強めていきます。     当時、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の彼我差(ひ-が-さ・敵軍と自軍の戦力の差)は60:1ともいわれ、 毛沢東とすれば国民党と共闘して日本軍を追い払っても、その後に大きな存在感を示すことはできないと考え、 国民党の勢力を削ぐ目的で、情報を日本軍に横流したともされています。

 毛沢東は南京陥落を大喜びしたとされますが、戦後訪中した社会党(当時)の佐々木更三らに、 「皇軍(日本軍)が中国の大半に進攻しなかったら、 中国人民は団結できなかった。 皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」と述べたそうです。

 1934年初頭からは、紅軍(共産党軍)は国民党軍135万の攻勢に耐えられず、同年11月には江西中央ソビエト区を放棄して逃亡するいわゆる「長征」を開始します。     この過程で8万を越えていた共産党兵力が国民党との戦いで死亡・脱落し、数千人にまで減少するなど大きな打撃を受けます。

 ただ、これにより毛沢東の指導権が確立されたわけで、共産党はこれを「長征一万里」と称し、国民政府に対する攻勢に転じる転換点だったとして栄光ある事業と位置づけています。     中国人のこじつけの上手さは天下一品なのです。

 中国共産党を追い払った国民党でしたが、中国内ではコミンテルンが仕掛けた抗日運動の突き上げが激しさを増しており、蒋介石としても、ヘタにこれを抑えようとすれば自分の身が危なくなるわけで、 止む無く日本軍との間で成り行きの要素の強いの戦闘を続けたわけです。

 現在の中国共産党は、我々は日本軍と戦い勝利したなどと喧伝していますが、騙されてはいけません。  ゲリラ戦を多少仕掛けたことはあったでしょうが、実際に日本軍と矛を交えたのは国民党であり、 共産党は日本軍とまともに戦ったことは一度もなく、ただ逃げ惑っていただけです。

 しかし、国民党との内戦に勝利した現在の中国共産党が支配する中国は、共産党の一党独裁国家となり、デモクラシーなどと無縁の、大衆には「言論の自由」さえ認められない徹底的な人治主義の国となっています。     もし日本と国民党があのまま手を組んだままだったら、中国の歴史と戦後の日中関係は、大きく変わっていたのは間違いありません。(2024.7.30)

   
  

日中戦争の分岐点・「西安事件」

 ここで日中戦争の重大な転換点が訪れます。   1936年(民国25年)12月、陝西省長安県(現:西安市)で、 蒋介石が張学良らによって拉致・監禁される 西安事件が起こります。    ここで蒋介石は「内戦停止」、「一致抗日」を迫られた末、1937年9月には再び共産党と手を組む「第二次国共合作」が成立しています。

 それまでは、日中戦争というより国民党VS共産党の内戦、という側面が強かったわけですが、西安事件を契機に、蒋介石は再び厄介な共産勢力との協力関係を受け入れざるを得ない立場となったのです。

 もともと日本は中国支配など考えてもおらず、あくまで国民党と「容日反共」の関係を保ち中国統一国家を目指していたはずでした。  中国における日本利権にしても、 あくまで第一次世界大戦でドイツに勝利した日本が、当時の列強の作法としてドイツ権益を譲り受けたものであって、 決して中国に武力進攻して奪ったものではありません。

 そもそも、辛亥革命以降、物心両面で孫文を支援していた日本の目的は、中国に強固な統一政府を誕生させ、連携して東亜の安定を図るというものでした。  ところが、 西安事件により蒋介石は完全に日本との対決姿勢へと変貌していったのです。

 これで国民党と日本の立場は、「容日反共」から「容共反日」へと180度変わってしまいます。    もはや日本は戦争の目的を失い邪魔者の立場に置かれてしまったのです。   かといって、 日本軍はこのまま中国から撤退するわけにもいきません。

 中国大陸には商売で進出していた日本人居留民数百万人がいます。  排日運動で被害を受けている日本人を守らなければなりません。    また、せっかく手にしたドイツ権益が列強に奪われでもすれば、極東アジアにおける日本の立場はますます弱くなり危うくなります。

 追い込まれた日本は粘り強く蒋介石と和平交渉を試みますが、 日本を中国から排除しようとするコミンテルンやアメリカがこれを容認するはずは無く、実現することはありませんでした。  こうなってしまったからには、 列強の作法に従い中国における利権確保に突き進むしか道は残されていません。

 こうして日本は中国の泥沼の内戦に巻き込まれていったのです。   もし西安事件がなかったら、共産党はジリ貧なって、 日中戦争の行方は随分違ったものになっていったかもしれません。   ここからは列強の食い物にされていた中国(清)が、 辛亥革命により滅亡したことに伴って生まれた、中国と日本の関係を見ていきます。(2024.7.30)

   
 

「日支共生」を阻む白人列強

 当時の中国は新興国日本と友好的な関係(日支共生)にあり、日本を手本としていました。   清王朝を倒した辛亥革命以降、1912年12月の初めから1913年3月まで、 支那初の選挙が行われますが、議員の半数は日本留学組だったといいます。

 当時の日本は、満州をめぐってロシアと戦った日露戦争の勝利により、有色人国家の中でただ一国、 列強と対等な立場でやり取りできる一等国(列強)の仲間入りをしていました。   その日本は、共に西欧列強に立ち向かい、人種差別と植民地支配からの脱却 を目指そうと、列強によって半植民地状態に置かれ食い物にされていた中国の統一と近代化を図ろうとします。  しかし、日本が掲げる「日支共生」は、 アジア・アフリカ全域を植民地支配していた連合国側にとって、はなはだ都合が悪いスローガンでした。

 この動きに、「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」、と待ったをかけたのが、 当時山東半島を支配していたドイツの駐北京公使のフォン・グレイルでした。  米国も日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へと誘導。    そこで反日思想を吹き込まれた連中が、後に帰国し日本色の強い議会を解散し、その後、 米国の思惑通り日支の関係は180度転換することになっていくのです。(高山正之・変見自在)

 列強は邪魔者・日本を中国から追い出すため、様々な妨害工作を仕掛けていくわけですが、  日本がやむに已まれず米国相手の戦争への道を突き進んで行ったのも、 猛烈な勢いで太平洋地域に勢力を拡大するアメリカが、 日本から南洋・中国権益を奪おうと次々に日本つぶしを仕掛けたという背景があったのです。

 中国と共生しようとしていた日本が、なぜ泥沼の日中戦争へ巻き込まれていったのか、そこには日本と中国が連携すると困る勢力による中国の排外ナショナリズムを日本一国にだけ向けさせる扇動活動があったのです。

 ここを予備知識として持っていないと、日本だけ激しい排日運動に晒されたのに、列強に対してはさほど排外運動が起こらなかった、という理由がなかなか見えてきません。

 戦後の、「日本悪玉論」をこれでもかと書き連ねる「トンデモ近現代史本」は、 このような国際政治の駆け引きには目もくれず(知らず)、何でもかんでも「日本が悪かった」という結論にしていますが、 こんな本に騙されてはいけません。  日中戦争の背後には「日本と中国が手を組みアジア地域安定化が図られると困る共産勢力」、 「日本を追い出し、中国利権を手にしたいアメリカ」の思惑が絡んでいたのです。(2024.7.30)

   
   

日中戦争の背後にはコミンテルンの存在があった

 蒋介石は最初から日本と対立一本やりではありませんでしたが、国民党内部手は常に内紛が頻発していました。   さらに、日本と停戦協定が結ばれそうになると、 日本人に対するテロ事件が起こり、日本軍を挑発して怒らせ軍事行動に駆り立て、結果、国民党と戦わせるというように、常に日本と国民党を対立 させようとする活動が行われていました。  これはコミンテルンの方針に基づいていたのです。   国民党はコミンテルンからの軍事援助が屋台骨となっていたわけで、 日本が蚊帳の外に置かれるようになっていったのも当然なのです。

 コミンテルンとは、1919年にソ連共産党を中心に結成された国際共産党のことで、共産主義を唱え世界共産革命を目論む組織です。   貧しかった中国大衆は、「貧富の差があり搾取が当たり前の資本主義」よりも、 口当たりのいい、「資本主義を克服した平等で自由な社会」を標榜する社会主義、共産主義に憧れ、扇動され、その標的とされた日本に激しい排斥運動を加えたのです。

 日本は中国の反日ナショナリズムを一身に受ける羽目になっていったわけですが、コミンテルンは国際的な対日包囲網をつくるための手段として、当時大勢の欧米人が暮らし利権が密集していた 上海に目をつけ、そこを戦火に巻き込み欧米人が日本軍により被害を受けたという嘘をでっち上げ、世界中に拡散させるなど、 排日の機運を高めさせるよう様々な陽動作戦を仕掛けたのです。

 日中戦争の引き金になったとされる、1937年(昭和12年)7月7日夜に起こった「盧溝橋事件」ですが、 当初日本軍は中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断し、 それ以上の事態拡大は考えていませんでした。  ところが、事件翌日、中国共産党は日本との開戦を主張する声明文を出しています。

 あまりにも手際が良すぎる話ですが、この背後にはコミンテルンの存在があったのです。 中国共産党としても、戦争で国民党を弱体化させ、代わりに勢力を伸ばし政権を握り、 中国を共産化するという目的がありました。  そもそも、「盧溝橋事件」は コミンテルンが日本と国民党を対立させようとした陰謀だったという説があります。    毛沢東もこれを認める発言をしていたとされています。

 日本を戦争で疲弊させれば、日本国内においても共産主義革命の道が開けるわけで、いずれ極東アジア全域を共産化するのがコミンテルンの世界戦略だったのです。     米国駐ソ大使は1935年7月、「アメリカを日本との戦争に引きずり込むのがソ連政府の願望」と本国に知らせています。

 当時の欧米は共産主義の危険性を見抜けませんでした。  マッカーサーの政治顧問付補佐官エマーソンは米上院での証言で、 戦後に野坂らの日本人民解放連盟を利用し日本人を洗脳したことについて、 「日本国内の戦争反対分子を励まし、(日本国の)内部崩壊を早める」よう提言はしたが 、「共産主義の目的についての理解が足らなかった」と弁明しています。

 自力で革命を成し遂げたことにしたい毛沢東は、コミンテルンとの関係を隠そうとしたとされますが、1980年代にある報告書が見つかり、1922年当時、中国共産党の党費の9割がコミンテルンから来ていたことが判明しています。     コミンテルン自体は、1943年に解散しています。(2024.7.12)


日中戦争の裏にあったコミンテルンの欺瞞作戦

 当初、日支共生を掲げ友好関係にあった日中関係が、その後日中戦争にまで対立していった要因に大きく影響したのはコミンテルン(共産主義組織)の存在です。     

 この組織は、内戦状態の中国を革命実現の有望地と見て、「反日・排日」スローガンを掲げ混乱に乗じ共産勢力を育て、革命のチャンスを掴もうとしていたのです。    北東アジア制覇を目論むソ連にとっても、勢力争いの相手である日本は、日露戦争で敗北を喫したほどの警戒すべき相手であり、 もし日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、 ソ連はそれを警戒していました。

 そのため、中国国民党内部の共産勢力を焚きつけ、内部分裂を図り日本と対立させるよう、コミンテルンやソ連軍の軍事顧問を国民党に大勢派遣し、 事あるごとに介入していたのです。

 また、共産主義排除を掲げる国民党と内戦状態にあった共産党の戦力差は圧倒的に国民党有利で、一時中国共産党軍(紅軍)は壊滅寸前まで追い詰められ、かろうじて華北まで逃げていました。(長征)     これは共産党を支援するコミンテルンにとって困ることであり、共産党を瓦解させないため国民党の愛国心を煽り国共合作(国民党と共産党は協力して日本軍と戦え)のおぜん立てをして、 日本軍と戦わせたのです。

 さらに、中国を支配する気などない日本は、国民党に何度も和平を迫っています。  その一つに、 南京攻略戦前、日本側は華北に国民党政権の行政を認め、 協力して中国共産化を防ぐという和平条件を示し蒋介石もこれを了承したとされます。   しかし、 運命のいたずらか日本軍内部で行き違いが生じてしまい、日本軍が南京を占領してしまったため、交渉は破綻しています。  このときもし和平が成立していたら、日中関係の行方は随分違ったものになったでしょう。

 「歴史にイフはない」といいますが、もし中国にコミンテルンの介入がなかったら、もし国民党がコミンテルンや列強に騙されず中国統一を目指したら、 アメリカが欲を出して中国から日本を追い出そうとしなかったら、世界史の歴史は大きく変わったはずで、もしかしたら日本と中国の関係は、 力関係はともかく、現在の日本と米国のようなまことに友好的なものになっていたかもしれません。

 ちなみに、大国アメリカに無謀な戦いを挑んだ「大東亜戦争」を日本に決心させた「ハル・ノート」 の背後には、日米分断を企てるソ連コミンテルンの思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかになっています。  戦後の日本人は「日本は戦争を起こした悪い国」としか教えられてきませんでしたが、 戦争の背後には、お人好し日本人には想像もつかないような、相手を欺くさまざまな情報戦があったのです。(2024.7.12)


    

日中戦争にみる当時の日本が置かれた立場

 東京裁判から100年近く経とうという現在でも、政治家はじめ、日本人の多くは『日本は東京裁判を受諾している』から、 『侵略戦争を認めた』と信じ込んでいます。  たしかに日本は東京裁判の判決は受け入れましたが、 犯罪国家という裁判内容 は受諾していません。   経済封鎖に追い込まれた結果として、開戦の選択したのは事実ですが 侵略戦争を企てたわけではないからです。

 東条英機ら東京裁判の被告たちは、正々堂々と「自衛戦争」 を主張し、結果として「死刑判決」を受けました。    そもそも、「国権の発動たる戦争」は、 独立主権国家が国際法上で有する最も至高かつ崇高な権利独立国家は戦争権を持つのが権利とされています。   それは個人になぞらえれば、生存権あるいは正当防衛権であり、 それを認めないのは基本的人権違反ともいえます。

 世界中で西洋列強が植民地支配合戦を繰り広げていた時代、 日本はアジア諸国と連携し「植民地支配からの解放・人種差別撤廃」 を掲げ奮闘したわけですが、当時猛烈な勢いで植民地支配国を増やしていた米国をはじめとした西洋列強が、 これを黙って見過ごすはずはなく、日本の抹殺を図ったアメリカによって、 日本はマッカーサーでさえ認めた「死中活路を見出した戦い」へと追い込まれます。

 日本も勝ち目は無いことは分かっていたのですが、 日本に最初の一弾を撃たせたアメリカの謀略により、 「生き残るための戦い」へ引きずり込まれ結果敗戦国となりました。  ただ、その過程で 白人列強による植民地支配に終止符を打つという、 人類史に残る偉業を成し遂げたのは歴史の事実であり、中韓以外のアジア諸国は アジアの指導者たちに自信を与えた日本に対し、皆感謝しているのです。     我々日本人は誇りと自信を持つべきなのです。  しかし、戦勝国によるプロパガンダによりその功績は表舞台から消され、学校でも教えてくれません。

 「WGIPによる洗脳教育」や「勝利国による日本への復讐劇」だった東京裁判によって、日本人の多くは、「先の戦争は、 戦争に駆り立てた軍部が、 戦時指導者が悪かった」としか考えません。   日本を悪者にするプロパガンダによって一方的に戦争責任をすり替えられている ことに気づいていないのです。

 日本は、無謀にも米国相手の亡国の戦いに突き進み、頑迷な「作戦第一、情報軽視体質」 によって悲惨な負け戦を繰り返し、最後は原爆投下によって悲惨な結末を迎えましたが、そこに至る過程においては、 「あの戦争は全て日本に戦争責任がある」とまでは言えない事情があったこと、 止むにやまれず起こした戦争という側面もあったことは、日本人なら理解しておく必要があります。   そろそろ戦勝国史観から解放されてもいいころです。

 ここでは、戦争の遠因となった日本軍の中国大陸進攻を中心に、当初日本は中国三民主義を支援していたこと、 それに対しアジア支配を目論む米国が様々な日本つぶし策を仕掛けたこと、 当初親日だった中国が「容共反日」へと宗旨替えしたこと、さらに、日本陸軍に巣食っていた狂信的な軍国主義者たちの暴走、等々、 当時の中国で起こった数々の出来事を中心に、最終的に中国との全面対決へ向かっていった経緯を振り返ることで、 決して日本だけが一方的に批判される情勢ではなかった、という歴史を追ってみます。(2024.6.4)


 

「日本つぶし工作」に成功した列強

 列強による「日本つぶし工作」が中国に浸透していったことで、その後の中国情勢は、「親日」から「容共反日」へ変貌していくわけですが、 そこには、白人列強による有色人国家・日本の中国権益拡大を阻止しようとする白人列強の思惑、ソビエト・コミンテルンに傾倒していく孫文、 さらに、日本国内に蔓延る軍閥の政治支配、等々、様々な要素も入り乱れていました。

 その後、「生き残るための戦い」に追い込まれた日本は、 現在のEUのような「大東亜共栄圏」を設立してアジアの自立を目指すという大義名分を打ち立て、 「大東亜戦争」へ突入していくことになります。      「大東亜」とは当時の日本が極東および東南アジアの地域を称した語でした。

 その「大東亜」における戦いは、欧米列強が支配していたアジア各地を植民地支配から解放する、という高い理念と構想があったのです。    戦いに勝利した側の言い分を無邪気に信じ込み、「先の戦争は全て日本が悪かった」と単純に総括してしまったら、本当の歴史は見えません。

 ところが、 戦勝国による「日本は侵略国家」というまやかしにすっかり騙されている戦後の日本人は、欧米列強の植民地支配・人種差別からの脱却を目指したスローガンであるはずの 『八紘一宇』を口にした途端、 デュープスたちから一斉に『軍国主義者』、『日本が中国、 東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンだ』とヒステリックに非難され、問答無用で切り捨てられる社会がいまだに続いているのです。

 あまりにも鮮やかな、「戦勝国による日本人洗脳作戦」の勝利なのです。   そして、悲しいことに、「この背景に気づいている日本人」は、 ますます少数派になっているのです。  あと半世紀も経てば、自分の祖国が昔、

 《...「白人国家をアジアの地から追い払い、アジアの指導者たちに自信を与え、アジア諸民族を独立へと導き」、 その過程で生じた戦争は「白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、 植民地主義さらには人種差別というものに終止符を打つという、スペクタキュラーな偉業をなしとげた」 戦いだった...》(藤原正彦 日本人の誇り)、

という「先の戦争で日本が果たした役割」を話題にする日本人は、もう誰もいなくなっていることでしょう。

 戦後の「戦争責任は全て日本にあるというプロパガンダ」は、いまだに恐るべき威力を発揮しており、日本を開戦に追い込んだコミンテルンや米国の謀略は、 闇に葬られ封印されました。  先の戦争を「日本の植民地支配と侵略」 と断定した村山富市が中国を訪問した際、 「盧溝橋に行って昔を反省した」と中国共産党幹部に無邪気に話した 彼の無知さを笑える日本人は、いまやそう多くありません。(2024.7.12)


  

見失われた日中戦争の本当の姿

 日中戦争の背後にあったコミンテルンの謀略を打破できない日本政府は、出口の見えない泥沼の戦いに巻き込まれていきます。    「盧溝橋事件」から日中戦争へと拡大していた1940年2月、帝国議会に置いて民政党の代議士が 「何のためにこんな戦争を続けるのか。この戦争の目的は何か」と質問しますが、当時の米内内閣の大臣は誰一人この質問に答えられなかったといいます。

 このときの日本は、単に「横暴な支那を懲らしめる」として、戦争目的不明の泥沼の戦争へと引きずり込まれており、 もはや当初の「日支共生」によって共に手を結び東亜の安定化を図ろうとしていた目的は、どこかに吹っ飛んでいたのです。

 当時列強により半植民地支配されていた中国を、アジア自立を目指す日本が独立させようと支援していたが、 コミンテルンや米国が仕掛ける日中関係の分断・日本排斥運動 によってハシゴを外されてしまった結果、 目的不明の戦争へズルズルと引きずり込まれていった、というのが日中戦争の本当の姿なのです。

 そもそも日本は中国領に侵略して支配しようとしたわけではありません。  満州権益確保のため動いた関東軍でさえ、それ以上の軍事行動は考えていませんでしたし、 日本政府も1938年から何度も和平提案を行っています。      しかも、和平交渉では中国領土の要求はしておらず、中国にとって不利なものではありませんでした。  しかし、コミンテルンに操られる国民党は拒否し続けたのです。

 「列強の半植民地となっていた中国が頼ったのは日本」、「日本は中国の三民主義運動に多大な貢献をした」という過去は、 現在では闇に葬られましたが、この歴史を理解していないと、「日本は中国に軍事侵略した」、「日本軍は中国で残虐非道な行為を行った」というプロパガンダにまんまと騙されたまま、 先の戦争はどっちが正しかった、誰が悪かった、という些末な話で終わってしまいます。(2024.7.12)


  

悪しき日本軍への中傷.....「三光作戦」

 日中戦争中の日本軍は、「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」という皆殺し作戦(三光作戦)を行った、などというデマが流されましたが、もちろん、日本軍がこんな作戦をとるはずがありません。

 「三光作戦」ではなく、日本軍は「燼滅作戦」という呼称で中国人を虐殺した、とする者もいますが、日本軍にこんな作戦名は存在していません。     日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた、などとされますが、こんな話は戦後に共産主義に洗脳された日本人が流布させた悪質なプメパガンダなのです。

 戦後は、メディアがなんら根拠のない「日本軍過酷物語」を量産してきました。    朝日新聞の本多勝一は、 自身の著書『中国の日本軍』(昭和47年)に、旧日本軍による「残虐行為」の証拠とされる、小銃を肩に担いだ軍服姿の男性らとともに、橋を渡る女性や子供たちの一群の写真を掲載しています。

 その説明文には、「....婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。  強姦(ごうかん)や輪姦は七、八歳の幼女から、 七十歳を越えた老女にまで及んだ...」、 などと日本兵がいかに残酷だったか、見てきたかのように断言しています。  しかし、これは1937年(昭和12年)11月発行の「アサヒグラフ」が掲載した、 「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」の写真であることが後に判明しています。  あまりにも事実を歪曲させたトンデモ話ですが、 こんな類の話が日本軍残虐説の根拠にされているのが現実なのです。   騙されてはいけません。

 現在の毎日新聞・浅海特派員が報じた「百人斬り競争」というものもありました。  2003年4月28日、犯人とされた軍人の遺族が、 遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして本多勝一記者、毎日新聞、朝日新聞、柏書房らを提訴します。

 しかし、東京地裁は「(毎日新聞の)記事に虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないが、 新聞記者の創作とまで認めるのは困難」、などとして原告請求全面棄却の判決が出され、最高裁においても原告側の敗訴が確定しています。

 「皆様のNHK」もセッセと日本悪者説を捏造するのに余念がありません。   1955年(昭和30年)、長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)を報じた番組「緑なき島」の坑内映像を、戦時中に軍艦島で朝鮮半島出身者への「虐待労働」があったとする主張を補完する形で報じます。

 しかし、この映像は別な炭鉱で働く日本人の映像であることが後に明らかにされます。 NHKや朝日新聞は、 いまだにGHQのお達しを忠実に守り、 日本の行いは全て否定する一方で、朝鮮人は常に可哀想な「被害者」であり、旧ソ連や中国を批判することはおろか、 日中戦争における中国国民党軍、八路軍を悪くする番組は扱わない 「左翼的偏向報道」組織なのです。

 「三光作戦」は、当時、執拗にゲリラ戦を仕掛け挑発してくる八路軍(毛沢東軍)を中心とした抗日運動に手を焼いた日本軍が、北京周辺の防衛も確保する目的で、 万里の長城沿いに中国人の立ち入りを制限する緩衝地域を設けようとした際の用語ともされますが、 いずれにせよ、日支共生を旗印に中国に進出した日本が、肝心の中国人を虐殺する指示を出すなどあり得ないことです。(2024.7.12)


 

「満州事変」と「日中戦争」、「大東亜戦争」の関係

 男は黙って...の日本民族は、 圧倒的に「説明責任がヘタな民族」とされます。    満州国についても、日本は「五族協和」をスローガンに様々な国作りに取り組んだにもかかわらず、国際社会から「事実上の日本の植民地拡大」と批判され、それに対する反論はできませんでした。

 日本人同士であれば「目を見れば判る」、で意思は通じるかもしれませんが、「言ったもの勝ち、やったもの勝ち」の国際社会では、 こんな日本人気質は通用しませんし、 自分の考えをキチンと口にしない限り外国人を納得させられませんし、理解してくれません。

 満州問題については別頁で触れますが、いずれにせよ、 日露戦争に勝利したはずの日本が、ポーツマス条約による「戦利品」の余りの少なさに、暴動騒動まで起こった末の満州進出という背景からすれば、 ハル・ノートが満州撤兵を求めたのも、日本が到底飲めない要求であることを知った上でのことであり、日本を戦争に引きずり込むための策謀 だった証でもあります。

 「日中戦争」は1937年(昭和12年)7月の「盧溝橋事件」 から始まったとされるのが日本人の一般的な見解ですが、中国では6年遡らせ1931年の 「柳条湖事件」からとしています。

 ただし、日本では大東亜戦争(太平洋戦争)については「先の大戦」、「アジア・太平洋戦争」などと呼びますが、支那事変(日中戦争)の位置づけはあくまで事変であって、戦争ではなかったとする解釈もあります。

 満州事変を経て、1932年(昭和7年)3月1日に「満州国」が建国されます。     戦後の満州を取り上げている「トンデモ近現代史本」は、 満州について『...日本が敗れたことで消滅し、中国に戻った』などと書いています。

 しかし、もともと中国のものでもない満州を「戻った」とするのはおかしな話です。  有史以来、漢民族の中国は「万里の長城」をもって北の国境線と定め、その外は化外の地、 つまり国家の統治の及ばない地域としていました。

 つまり、もともとは清朝(満州族) のものだったわけで、辛亥革命で政権を失い中国(漢民族)から命を狙われていた清朝最後の皇帝・溥儀が、傀儡とはいえ日本と共に満州国を作ったのは、 一応筋は通っている話であり、少なくとも、中国(漢民族)が満州権益を握った日本を批判できる道理はないのです。

 日中戦争を満州と同一視する向きもいるようですが、あくまで満州は中国とは別物だったわけで、柳条湖事件の事実関係を調査した リットン調査団も、満州国の正式承認は認められないが、 この時点では日本政府も万里の長城を境に、それ以上戦線を拡大させていく気はないだろうから、いずれおさまるところにおさまる妥協点を探ろう、という風向きだったのです。

 そもそも、リットン調査団としても強盗集団である列強のメンバーであり、強盗が泥棒を批判することなどできるはずはないのです。   ここでは、満州については日中戦争と関連付けてはおらず、 別ページに載せています。(2024.7.12)


日本を近代化の手本にしようとした中国

 孫文の「辛亥革命」には明治政府、有力政治家、篤志家など大勢の日本人が支援したわけですが、その最大の支援者の一人が梅屋庄吉という日本人です。    梅屋は孫文を支援することが全アジアのためになると固く信じる人物だったとされ、 彼が孫文に提供した資金は、今の貨幣価値にすると1~2兆円ともいわれています。   孫文の革命を支援する日本人たちは、滋賀県に飛行学校を作り中国人留学生たちに操縦まで学ばせています。   これは中国空軍の始まりともいえるものです。  言い換えれば、日本人の物心両面の協力なしには、 中華民国建国の革命成功は不可能だったのです。

 日清戦争で敗北した清帝国は、欧米に頼る洋務運動に見切りをつけ、倭人日本人を手本として学ぶ「師倭」に変わっていきます。  しかし、 それは西太后(せいたいこう)ら保守派による妨害で破綻します。   ただ、日露戦争以降、清帝国は政治を始めとする各分野に日本人顧問を迎え入れており、 辛亥革命後に誕生した中華民国臨時政府や、袁世凱の北京政府には、一説には1000~2000人もの日本人顧問がいたといいます。

 日本人軍事顧問たちは、列強によって半植民地にされ、革命、内戦に明け暮れる中国において、中国軍を外国勢力に対抗できる近代的軍隊にするために心血を注いだわけですが、 ドイツやアメリカの軍事顧問より多く雇われたといいますから、いかに当時の中国が日本を頼りにしていたかが窺えます。     その中でも「坂西利八郎」は、中国の新軍創設と訓練の親として、「中華民国の軍使」といわれています。

 坂西は、当時ロシア占領下の満州に入り、ロシア軍の動向を探査、彼が送ったレポートは後の日露戦争の戦略に多大な貢献をしたとされます。   1903年、 坂西は袁世凱の軍事顧問となっており、日露戦争中、 清国は中立宣言をしていましたが、宣誓文を書いたのは坂西でした。   清国政府内には、戦時国際法を知っている者はいなかったのです。

 1914年、第一時世界大戦が起こると、かねてより日本の力を借りて中国からドイツを駆逐したいと考えていた、当時は中華民国臨時政府の大総統だった袁世凱は、 中国の対独参戦を希望しますが、坂西は「支那が何の準備もないのに参戦しては、日・英に迷惑をかけるだけであり、日露戦争時と同様好意的中立を保つべき」と引き留めたとされます。

 袁世凱亡きあと、中国は多くの派閥が離散集合し群雄割拠する不安定な国内情勢が続きますが、各政府や武装集団の実力者たちは、 その戦いに勝ち抜くため当時世界で最も精強な日本陸士出身の軍人を、競って軍事顧問として雇い入れたといいます。(2024.7.10)


  

動乱期の中国勢力争い....国民党の成り立ち

 日本も「南北朝時代」のように最高権力者である天皇が二つに分かれ、日本中がどちらかにつき、または割れ、戦乱に明け暮れた時代がありましたが、 日本が期待した中国三民主義を唱える孫文が関係する「中国国民党」の内部抗争も、二つどころか各地の軍閥がくっついては分裂を繰り返す、トンデモナイ混乱ぶりとなっていったのです。

 そこに中国共産化を目論むコミンテルンが入り込み、当初孫文が目指した体制と真逆の勢力である共産党員が国民党内部に入り込み、混乱の度合いはますます高まります。     中国世情はもつれた糸が複雑に絡み合う状況に陥ったのです。  これでは列強により食い物にされていったのも必然だったのです。

 誰が誰とどうなったかをいちいち追いかけても切りがないので、とりあえず孫文-汪兆銘-蒋介石という人物を中心にして、日中戦争を通して主軸となった国民党(中華民国)の動きをザックリ追ってみます。

 中華民国は、中国の南部・広東省の広州で複数回にわたって広東政府が生まれては消滅しています

(2024.7.22)


同床異夢だった国民党と共産党

 ここからは、国民党の動きを中心に、国民党と共産党の連合、孫文の死、共産党の勢力拡大に危機を覚えた蒋介石が共産党排除するまでの大まかな動きをまとめてみます。   各詳細については第二幕に記述しています。

 袁世凱死後、実権を握った段祺瑞(だん きずい)でしたが、寄合所帯のため政権は安定せず内部抗争を繰り返します。   そこに第二革命以来政治から遠ざかっていた孫文が戻り、段祺瑞政府と別の中華民国軍政府(広東軍政府)を中国南部広州で組織します。  が、 そこでも内紛により1920年3月、広東軍政府は消滅します。  以降、中国はこのように集まっては対立し解散、という離合集散パターンを繰り返していきます。

 国民党広東軍政府は1924年1月20日、広東で第一次全国代表大会を開催しますが、この時点で国民党には陳独秀や毛沢東ら中国共産党員が個人として加入しています。      大会綱領には、いままでの「三民主義」に「連ソ」、「容共」、「扶助工農」を加えた「新三民主義」を掲げ、 中国国民党へ共産党員の加入を認める方針を明示します。  すでにここから国民党の前途は危うさを含んでいたのです。

 これにより、中国国民党と中国共産党の協力関係、いわゆる第一次国共合作が成立します。   これは、統一目標である北京政府打倒を果たすための 軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であり、右派・左派が抗争に明け暮れる国民党においては同床異夢の体制だったのです。

 案の定、その3年後の1927年4月、蒋介石が中国共産党を排除するため起こした上海クーデター によって国共合作は事実上崩壊しています。  第一次国共合作の終了を正式に宣言するのは7月13日ですが、それ以降、 今度は中国国民党・国民革命軍と中国共産党・中国紅軍との内戦・第一次国共内戦に突入しています。  くっついたり離れたりと忙しい国なのです。

 1925年3月に孫文が死去しますが、1925年7月1日、広州で再び広東軍政府が編成され、中華民国国民政府が正式に成立します。    これが最初の「国民政府」を名乗る政府となります。

 主席委員を汪兆銘(おうちょうめい)として、広東省広州市に本拠を置く広州国民政府は、政治顧問にはコミンテルン党員が、軍事顧問にはソ連赤軍の司令官が任命されるなど 国民党右派を排除したもので、ソビエト連邦からの緊密な支援関係で構築され、 毛沢東ら中国共産党の党員も参加し役職に任命されるなど国民党と共産主義者の合体組織で、共産勢力による謀略が蠢いていました。

 こんなデモクラシーとは無縁の共産主義体制が幅を利かす国に、東亜安定のためという大義名分はあったものの、ノコノコ首を突っ込んでいった日本が、その後どんな目に遭うのか、 第二幕以降、思い知らされていくことになります。(2024.7.10)


国民党の指導者争い

 1926年1月の国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘は、 他者をおさえて国民党の指導者となります。  汪兆銘は日本に留学経験があり孫文の側近でもありました。   この時点では後の国民党指導者・蒋介石は、 孫文が広州に設立した国民革命軍の士官養成学校である黄埔軍官学校の校長にすぎませんでした。

 列国からの承認は得なかったものの、中国は広州国民政府こそが孫文の正統な後継者であるという形になります。      しかし、お家芸の国共両党間の主導権争いは激しさを増していきます。   1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が黄埔軍官学校の沖合に現れ、 蒋介石を革命の障害と見なしたソ連が拉致しようとする事件(中山艦事件「三・二○事件」)が起きます。

 中国共産化を目指すコミンテルンとしては、「三民主義」を継承する蒋介石をこのまま放置すれば目的は達成できないわけで、蒋介石排除に動いたわけです。  これを中国共産党員のクーデタ準備と断じた蒋介石は、 共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州全市に戒厳令を発します。

 これを機に国民政府における共産党の活動は大きく制限され、 それまで国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていた蒋介石の指導的地位は高まります。  トラブルの余波を受けた汪兆銘(汪精衛)は、フランスへ逃れることとなります。

 実権を掌握した蒋介石は国民革命軍総司令に就任、以前から危機感を持っていた共産党員の台頭に対処するため、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、 国民党の要職から共産党員を排除していきます。

 しかし、蒋介石が望んだ国共合作解消は、スターリンがソ連軍事顧問団を引き揚げさせるなど妥協したため、かろうじて継続されます。    このあとから、中国では孫文の遺志を引き継ぐ国民党と、ソ連・コミンテルンが裏で糸を引く中国共産党との、権力争いが激化していくわけです。

 ここまで見てきた限りでは、日本は国民党を支援してはいるものの、中国の権力争いにさほど重要なポジションを占めておらず、少なくとも「日本は中国に軍事侵攻した」とされるような事態は起きていません。    この後は混迷する中国勢力争いが起こる第二幕へと続きます。(2024.7.10)


孫文亡き後の中国国民党内部の権力争い

 (中山艦事件「三・二○事件」)により、 国民政府における共産党の活動を制限し軍権を掌握した蒋介石でしたが、またしても党内に蒋介石に反発する空気が醸成され、 解放された武漢や上海では、共産党員・国民党員らが蒋介石から独立する動きを見せなど、孫文亡き後の中国国民党内部の権力争いは続きます。     このように、何度も離合集散を繰り返してきたのが中国革命の実態なのです。

 北伐軍の中路軍を率いて順調に北伐を進める蒋介石は、南昌を占領した時点で政府を南昌に移すことを決めます。  一方、 広州国民政府の国民党左派と共産党が主体の中国国民党の党軍隊・国民革命軍の西路軍は、1926年10月、軍閥の呉佩孚軍を破り、武漢(武昌)を占領。    順次拠点を北方に進出させようと政府の武漢移転を主張します。  蒋介石と右派が強大になるのを警戒したのです。

 結局、このときは蒋介石側が折れ、1927年2月21日に正式に武漢への移転を完了、武漢国民政府が誕生します。  武漢国民政府でも蒋介石の権威は強まっていきますが、 これに待ったをかけようとしたのが、国民党左派と共産党、ソ連から派遣された政治顧問ボロディンです。

 1927年3月、この反対勢力は武漢でひらかれた国民党第二期第三回中央委員会で、党内規約を左派に都合の良いよう改正。 総司令職を廃して蒋介石を一軍事委員に格下げします。  その結果、 政府・党の要職は左派で占められ、共産党員が初めて閣僚クラスのポストに就くなど、武漢国民政府内には共産党勢力の発言力が増していきます。

 党を取り仕切るのは困難とみた蒋介石は、汪兆銘にフランスからの帰国を要請、しかし、帰国した汪は蒋介石が期待した共産党との調停は不成功に終わり、 国共合作解消の要求にも応じず、もはや汪兆銘は当てにならないと判断した蒋介石は、自力で共産党排除へ動きます。(2022.3.26)




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関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



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