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知られざる戦争....シベリア出兵

 日本軍によるシベリア出兵は、第1次世界大戦(1914年7月〜1918年11月)末期の1918年8月2日に始まり、ロシア本土からの撤兵は1922年10月25日、北樺太からの最終撤兵は1925年5月15日まで続いた、 足かけ7年に及ぶ戦争でした。

 第1次世界大戦の最中、ロシア革命(1917年)が勃発しボルシェヴィキ政権が誕生します。  これにより連合軍側(日本もその一員)に属して欧州の東部戦線でドイツ帝国およびハプスブルク帝国 (オーストリア・ハンガリー帝国)と戦っていたロシアはドイツと単独講和を実現し手を引きます。  これによりドイツは全勢力を西部戦線に振り向けることが可能となりました。

 この状況に強い危機感を抱いた英仏はボルシェヴィキ政権を倒して、ロシアを東部戦線に復帰させることを意図します。 この英仏からの強い要請に応じて、 ロシア極東とシベリアに干渉軍を派遣することになったのが、日本と米国の連合軍を中核とした15カ国に及ぶ「多国籍軍」でした。

 シベリア出兵は、この多国籍軍による「シベリア干渉戦争」として始まり、後半は日本のみによる単独出兵となっていきます。    第2時世界大戦後も朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガン戦争、イラク介入などの干渉戦争が次々に起きていますが、それらの原点がシベリア干渉戦争だったともいえます。

 当然この戦いには日本として何の見返りも無く出兵するはずはありません。  日本がすでに押さえた朝鮮半島と隣接する満洲、さらにバイカル湖以東のシベリアとロシア極東に、 日本の傀儡政権を樹立して勢力圏を確保するという目論見があったとされます。

 ただ、当時の日米関係は経済関係は密接でしたが政治的には関係が悪化する傾向にありました。 そのため日本はあくまでも日米共同歩調を維持しつつ、米国が踏み切らない限り出兵しないという方針を貫いてました。    米国は第1次大戦の開始当初は孤立主義を保っていましたが、後半の1917年には大規模に出兵しています。     英仏から度重なる要請を受け米国はついにシベリアへの出兵を決断し、日本もこれ幸いと追随します。

 シベリアに出兵する兵士の数は各国7000人までという申し合わせでしたが、日本はなにかと理由をつけては増員し、ピーク時には7万2000人も出兵しています。     日本軍の第1次大戦での戦死者は415人とされていますが、「シベリア出兵」での死者は3500人にも及んでいます。    ちなみに、米軍は第1次大戦において11万人強の戦死者を出して連合国の勝利に多大の貢献をしています。  

 ただし、英仏米の軍隊は、英国は香港、フランスはインドシナ、米国はフィリピンというように、地理的に近いアジアの植民地から出動させています。    米国は現地駐留の米国人将兵ですが、英国軍にはインド兵、フランス軍にはベトナム兵が含まれています。

 戦いは軍隊同士の正規戦というより、パルチザンが主導するゲリラ戦となり、拠点ごとに分散して駐屯していた日本軍を孤立させ、各個撃破するという典型的なゲリラ戦術で日本軍を苦しめます。    1919年2月25日には、シベリア鉄道沿線のユフタで田中勝輔少佐が率いる田中支隊がパルチザン部隊に包囲され全滅するという惨事が発生します。

 一般市民を巻き込むゲリラ戦はいろいろな悲劇を巻き起こします。  この田中支隊全滅事件が、日本軍による報復を引き起こし、パルチザンをかくまったという理由で、 村全体を焼き討ちにする事件も発生しています。     結局悲惨なゲリラ戦が続くと、ベトナム戦争における米軍ソンミ村事件や、韓国軍による数多くの蛮行のように、一般市民に対する虐殺行為という悲劇が必ず起きてしまうわけです。

 さらに、このシベリア出兵はそもそも戦争の目的が曖昧であり、士官でさえ軍規が弛緩していたといわれます。  こんな状況では厭戦気分も広がります。  現地に派遣されていた日本軍憲兵隊の記録には、 ロシア人に対して行われた虐殺や略奪だけでなく、日本軍内部でも窃盗や脱営・逃走、上官侮辱や命令無視などが横行し、軍規が乱れていたことが書かれています。    これらの不祥事は起こるべくして発生してしまったものともいえるものでした。

 さらに、厳冬期にはマイナス40度以下にもなる現地における装備の貧弱さが輪をかけて兵士を苦しめました。  防寒対策が最初の段階では十分に進んでおらず、 徐々に改善・改良が実行されてはいきますが、当初は凍傷被害がきわめて多かったという状態でした。  現地に根を張ったパルチザンに対して勝ち目はなかったのです。

 ロシア革命は赤軍と呼ばれた革命賛成派と、白軍と呼ばれた反対派の内戦でもありました。 破れた白軍の関係者たちの一部はロシアから北海道などにも移り住むようになり、 プロ野球初の300勝投手であったスタルヒンや横綱大鵬の母親たちもこうした人だったと言われます。(2019.2.28)


 

「尼港事件」

 尼港事件(にこうじけん)とは、アムール川河口にある地方都市ニコラエスク・ナ・アムーレで、1920(大正9)年5月24日に発生した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件です。    ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに、日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに抵抗した日本守備隊と日本人居留民ほぼ全員が殺戮された事件です。

 パルチザン部隊によって包囲されたニコラエスクには、長崎や天草出身の女性が多く渡航していたといいます。 大正時代までは南方のオランダ領東インド(=現在のインドネシア)だけではなく、 北方のシベリアにも多くの民間人がチャンスを求めて渡っていました。 さらに5月になってもアムール川が凍結しているため、日本からの救援隊が接近できなかった状況もありました。

 4000人以上といわれる赤軍パルチザン部隊には朝鮮人1000名、中国人300名もいたとされ、中国海軍と共同で老若男女の別なく数千人の市民を虐殺しています。    殺された住人は総人口のおよそ半分、6000名を超えるともいわれ、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされました。 ニコラエスクの街全体も焼き払われています。

 この事件を受け、日本国内では「尼港事件の敵(かたき)を討て」という議論が沸騰。  さらに当時は海軍でも石炭から石油へのエネルギー転換期にあたっていたため、 石油資源の確保が至上命題となっていた背景もあり、軍部はこれに乗じて北樺太(北サハリン)を占領します。

 それにしても、中国や朝鮮人という民族は残虐な殺戮行為がよほど好きなようで、中国は通州(つうしゅう)虐殺事件や、 黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)でも同様な手口で日本人や自国民を大量虐殺しています。  朝鮮人も日本人の耳や鼻をそぎ落とし陰具を切断 するなど残虐な殺戮を行っています。 

 彼らは手足切断や陰部への冒涜という残虐な殺戮方法を好むようですが、そのためか日本軍の残虐行為をあげつらうウソをつくとき、つい自分達の殺戮方法で証言してしまいます。     しかし本当の日本人は精神異常者でもない限りそんな行為は到底できません。  だから彼らの証言はウソだとバレてしまうのです。

 この尼港事件と同時期には、多国籍軍を構成していた英仏やその他の国の軍隊を含め米軍も撤兵していますが、日本だけが単独出兵という形で1925年5月まで北樺太に居残っています。    この日本の行動は後年イロイロと言われますが、当時の食うか食われるかという国際関係を、いまの平和時代の感覚で断罪しても仕方ありません。  そういう時代だったのですから。

 ロシアを斃そうとした英仏でさえ、その後1924年にはソ連を承認しています。 外交は正論で片付くものではなく、それぞれの事情と思惑が複雑に絡んでいるわけです。  日本も1925年1月に「日ソ基本条約」を締結してソ連を承認していました。  反共国家の雄米国がソ連を承認したのは1933年でした。

 ほとんど何も得ることなく終わったこの戦争は、軍部が報道管制を行って都合の悪い情報はすべてシャットアウトし、戦地の正確な状況が国民の目から伏せられたこともあって「知られざる戦争」と言われていますが、 「大正デモクラシー」という時代背景もあり、日本国内ではきわめて批判が多かったといいます。

 陸軍の治安出動によって鎮圧された米騒動も、出兵に伴う食糧のコメ買い上げの噂が、さらなる米価急騰を招きシベリア出兵宣言の翌日に始まっています。

「大衆の時代」の始まりとされる大正時代は、ロシア革命の影響もあって労働争議が多発し、明治末期の1910年5月、明治天皇暗殺を計画したとの理由で各地で多数の社会主義者、 無政府主義者が検挙された「大逆(たいぎゃく)事件=幸徳事件」以降鳴りを潜めていた社会主義運動も息を吹き返しています。 1925年には「普通選挙法」が成立して成人男子すべてに選挙権が与えられますが、「治安維持法」と抱き合わせの成立でした。

  

日本により免れたソ連崩壊

 1941年6月頃、ドイツのヒトラーは日本側に
『ドイツ軍は数日後、ソ連に対して開戦することを決定した。 そこでドイツ軍の対ソ攻撃に策応して日本軍が満州方面からシベリアに向かって 極東ソ連軍を攻撃し、わが軍の作戦に強力してもらいたい。 日独が強力してソ連に当たれば、短期間にソ連を屈服ないしは脱落させることが可能である。 現段階においては日独両者とも 先ずソ連を叩き、背後の安全を図ることが必要である』...と要請します。(三根生久大・陸軍参謀エリート教育の功罪)

 日本側はただちに「関東軍特別演習」を発動、70万の兵士を動員し独ソ戦を見守りながら、ソ連に対して機を見て攻撃を開始する準備を整えます。    結局これは南方作戦を計画していた海軍の強固な反対に会い実現することはありませんでした。

  独ソ戦は、9月まではドイツが優勢でソ連は崩壊寸前でした。  しかし日本軍の参戦が得られなかったドイツはモスクワに突入してソ連を撃滅する作戦目標を、 ウクライナ占領へと大転換します。 それによりソ連は立ち直る時間を稼ぐことができました。

 もしドイツと日本が対ソ作戦を実施していればソ連は崩壊し、かつこの作戦が行われていれば、南部仏印進駐は行われず、米英もおそらく経済封鎖はせず、 戦争の様相も大きく変わっていたでしょう。


ノモンハン事件

 1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州とモンゴルの国境線をめぐり日本軍と旧ソ連・モンゴル軍が戦った、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突。

フルンボイル平原のノモンハン周辺で、モンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展しました。

大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないとし、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘」と称しています。

 この戦いで日本軍第23師団が壊滅しましたが、この事件の詳細は国民に伏せられ日本の無責任体制の典型例として今でもたびたび引用されます。

当時、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘結果について反省することもなく、敗戦は第一線の部隊が思わしい戦いをしなかったからであり責任を負って死ね、 と各部隊長を自決させたり、処分したりしたそうです。

 ただ、日本軍が一方的に敗れたとされたこの戦いは、実際は旧ソ連・モンゴル軍の損害の方が日本軍より多かったと後に発表されました。
戦死傷病者は日本側約1万9000人、旧ソ連・モンゴル軍側約2万4000人。

 日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、日本軍は白兵攻撃でねばり強く勇敢に戦った、 勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」、 「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した」 との見解が学術的には一般となっています。

 前線の日本軍将兵の戦いぶりが非常に勇敢だったようで、敵のジューコフ元帥が語った『日本軍の下士官兵は頑強であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である』は、 その後の戦いでも実証されていくことになります。


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