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宮古島島民遭難事件....台湾出兵

 日本は、もともと台湾は清国領であることは認めていました。  ただ、清朝は台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかった為、台湾の統治には永らく消極的だったといいます。

 清朝は当初は台湾島を領有する事に消極的でしたが、軍事上の観点から領有することを決定。  「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対して攻撃を行い、 1683年に鄭氏政権を滅ぼし台湾を制圧します。  その後、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入します。

 一方、琉球王国(いまの沖縄)に関しては排他的な支配権を主張し、実質的な日本国領としていました。   そんな時の1871年(明治4年)10月、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、 漂着し台湾山中をさまよっていた生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害されるという事件が起こります。(宮古島島民遭難事件)

 これに日本政府は清朝に対し厳重に抗議しますが、清朝からは、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるとして、言を左右にして謝罪も賠償もしないと返答してきます。    今の弱腰ぶりと違い、切った張ったの明治維新を生き抜いてきた強者が揃う日本政府は容赦しません。    当時の日本の政治家たちは、中国ごときに恐れない迫力・胆力があったのです。   現代の中国に怯えて頭の上がらない日本の政治家に、 当時の先人たちの爪の垢を、ゼヒ飲ませたいものです。

 当時の西洋国際法では、統治の所在が不明の土地は「無主の地」として「先占」が認められていました。  日本はこれを正しく理解し、清との領有争いを明確にしようとしたのです。    当然そんな国際法など知らず、責任観念が欠落している清としては、国際法をタテに迫る日本に立ち向かえる術はなく、そもそも防御できる倫理観すら持ち合わせていません。

 1874年(明治7年)4月、責任回避に終始する清に業を煮やした日本は、犯罪捜査などを名目に台湾出兵を行います。  警察ではなく軍を派遣したわけで、これが開国後の日本としては初の海外派兵となります。    当初、台湾出兵には日本政府以外にアメリカやイギリス公使からも反対意見が出て、政府は一旦は派兵の中止を決定しますが、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させます。

 1874年5月、日本は台湾への懲罰的遠征を開始します。  しかし、この出兵の際に明治政府は清国へ通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しも行わなかったため、明治政府にとって諸外国からも批判される失策となります。

 事態打開を図るため、8月、全権大使の大久保利通が直談判のため北京に乗り込みます。  そこで大久保は、『台湾を清国領と認めるならば謝罪と賠償をすべし、責任がないとするならば自力で復仇する』と迫ります。    大久保は、かつて副島種臣外務卿が清国から引き出していた「台湾は化外である」との言質を最大限利用したのです。(日本人だけが知らない「本当の世界史」)

 その後、清国が日本の出兵を認めて虐殺被害者に見舞金を支払うことを条件に、日本は撤兵に同意することにより同年10月31日、事件は一応の解決を見ます。  一方、この事件は日本に思わぬ福音を呼びます。    当時琉球は日本と清国との間で帰属が明確ではなかったのですが、清国が日本軍の行動を承認したため、おのずと琉球民は日本人であると認めた形となり、国際的に琉球の日本帰属が承認される事となったのです。

 なお、台湾出兵における損耗は小競り合いでの戦死者は8名でしたが、マラリアにより561名が病死したとされます。 また、日本国内の会社が輸送業務を断った中、三菱商会の船会社が兵站輸送を一手に引き受け政府から厚い信頼を得ます。    これをきっかけに、三菱はシェアを一気に拡大し一大財閥になっていったのです。

 それにしても、当時の明治政府はサスガ明治維新の激動を生き抜いた強者ぞろいだけあって、当時の清国が内憂外患の状態に置かれていたとはいえ、「眠れる獅子」相手に一歩も引かない、どころか完全に相手を飲んでいたわけで、 今の軟弱政治家が束になっても足元にも及ばない胆力の持ち主ぞろいだったわけです。   せめて今の日本政府に、明治政府の何分の一かの気概があったら、北朝鮮の日本人拉致事件など、あっという間に解決していたことでしょう。   胆力のない国は無力なのです。(2024.8.1)


  

琉球王国帰属問題

 いまは日本領土の沖縄ですが、歴史を辿れば明治時代初めまで正式な日本国ではなく、琉球王国という国でした。   琉球王国は1609年に日本の薩摩藩と朝貢国ー宗主国の関係を結び、その後250年以上にわたって、 徳川政権の事実上の首都である江戸に一連の使節団を派遣していました。  その一方で、中国とも冊封(朝貢)関係を続け、使節団の受け入れ(冊封使)と派遣(英語版)(進貢使)を行っていたのです。

 この状態は「日支両属」と呼ばれ、琉球国王によって統治されているが、直接的ではないものの藩制度の一部を構成し、中国とも半自律的な外交関係を結んでいたわけです。    この不明瞭な立場にあった琉球ガクローズアップされたのか1871年(明治4年)10月の「宮古島島民遭難事件」でした。

 清国が台湾出兵の際、琉球民は日本人であると認めたことで、日本政府は琉球王国を藩の一つに位置付け、その後1875年7月、(1)中国への朝貢・祝賀使節の派遣中止、(2)中国からの使節の接待中止、 などを承諾させようとしますが、独立国家の気概を持つ琉球王国は、「日本は父、中国は母」として、 旧来の二重忠誠制度への復帰を求める嘆願を行います。  しかし、日本政府は藩を県に改めることを決定したため、琉球の役人は東京から追放されます。

 そして、1879年3月、琉球藩を廃止して沖縄県を設置することを通知した日本政府は、強引に首里城を明け渡すように指示し国王を追い出し首里城を手に入れ、同年4月、 琉球藩が廃止されて沖縄県が設置されたことを国民に発表したのです。

 今の時代から見ればとんでもない横暴ぶりの琉球王国帰属だったわけですが、琉球王国の辿った運命は、まさに当時世界中で吹き荒れていた植民地支配合戦の一コマであり、 もし日本が手を出さなかったら、いずれどこかの列強がしゃしゃり出てきて、武力で奪っていったことは間違いありません。  なにせ、 アジアの地で植民地にならなかったのは日本以外、タイ、ネパールだけだったのですから。

 清政府が併合に猛反発し、武力解決を主張するタカ派がそれに拍車をかけたことで、琉球問題は日清戦争を引き起こす重要な要因となったわけですが、、日清戦争の日本の勝利により決着がついたわけです。    日本を恨むとしたら、同時にこんな弱肉強食の時代だった歴史を恨むしかありません。  戦うか死か、というのがほんの100年前までの人類の歴史だったのです。   救いはこの一連の処理に置いて誰も血を流さなかったことです。

 ただ、琉球王国帰属問題の日本と清による1880年(明治13年)の北京交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示しています。   これは分島に対する琉球人の反対もあって調印には至りませんでしたが、万が一実現していたら、八重山諸島と宮古島の住人たちは 「密告されたら即収容所行き」の国の国民とされていたわけで、帰属先が日本だったことは、むしろ幸運だったと言えるかもしれません。(2024.8.1)


 

日本による台湾統治

      番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわける「土牛溝」を設け、台湾原住民を化外の野蕃として放置し、 台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかったといいます。

 1894年、「日清戦争」が勃発。    日本はこの戦争に勝利し下関条約によって台湾を統治。  日本は台湾に台湾統監府を設け、韓国と同様に、台湾の人々に対する教育やインフラ整備に力を入れます。

 当初は台湾住民からの抵抗は激しいものがありましたが、 1896年に台湾統監府条例を公布し軍の政治から民政へと切り替え、 民生局長には関東大震災からの東京建て直しで知られる後藤新平を起用。     大きなダムを作りアジア有数の穀倉地帯とし、現在も使われている水力発電所を作り電気が台湾中に渡るようにするなど、 台湾の近代化を進めていった結果、抵抗運動は徐々に鎮静化していくことになりました。

 日本の統治時代に台湾の近代化が一気に進み、多くの学校も作られたことで、今でも年寄りは日本語をネイティブとして話せる人もいます。    いまでは台湾はナンバーワンの親日国となっていますが、かたや、台湾と同じ扱いを受けた韓国は最悪の反日国家となっています。    この差ってナンでしょう。


 

列強に蹂躙され続けた台湾

 17世紀になりポルトガルのマカオ進出に刺激されたオランダスペインは、 台湾に進出を試みます。   オランダは1624年、台湾南部のタイオワン(現在の台南の外港である安平) にゼーランディア城を建設します。  日本も台湾進出を目論み1628年にオランダと衝突しますが占領に失敗しています。   さらにオランダは北部台湾のスペイン勢力を圧迫。 1642年に撤退させ、1661年まで東インド会社による植民地経営が行われました。

 明にとって台湾は化外の地であり正式な領土ではなかったのですが、1628年、当時東シナ海一帯の海賊集団であった鄭芝竜を官につけて台湾に進出させます。 鄭芝竜は福建の住民を台湾西部に入植させて基盤をつくり、オランダの支配に対抗します。  1644年に明が滅亡すると、鄭芝竜・鄭成功の親子は台湾を拠点に反清復明の運動を展開。     鄭成功は1661年オランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を占領、翌年にオランダは台湾から撤退します。

 これ以後、1683年までの22年間は本土の清王朝から独立し鄭氏台湾が存続します。 1683年、清の康煕帝は、台湾の鄭氏一族の内紛に乗じて遠征軍を送り、制圧。     ここにはじめて台湾は中国の領土として本土政権の統治を受けることとなります。   ただ台湾は清にとっては辺境の地であり、あまり重視されてきませんでした。

 清仏戦争においては、フランスはさらに東に離れた台湾の占拠も試みましたが、さすがに清軍の防衛がかたく、台湾占拠は難航します。    戦況は若干フランス優位でしたが、結果的に台湾全土を占拠することはできませんでした


   

台湾問題.....中国が仕掛ける「一国二制度」

 中国と台湾の歴史は複雑です。  1992年頃までは政権与党で中国寄りの国民党と中国共産党が、「一つの中国の原則」を守るという趣旨の秘密の合意文書を交わしたとされる関係でした。    それが

 「台湾の若者たちのほとんどが「天然独」(てんねんどく)、すなわち「生まれながらの独立派」とされます。   そもそも生まれながら自由を謳歌する生活が当たり前の生き方をしてきた人間が、 いまさら「独裁者」中国共産党による「少数民族政策」や「一国二制度」を受け入れるはずはありません。

 近現代史における中国による周辺民族の支配は苛烈を極めてきました。   毛沢東の共産党政権は軍事力を使って周辺民族に対する侵略を繰り返してきました。   対外的には覇権主義的拡張戦略を積極的に進め、チベット人やウイグル人の住む地域に人民解放軍を派遣してそれを占領して中国の一部にしてきたのです。    例えば内モンゴル自治区と新疆ウイグル自治区、それにチベット自治区などはすべて「民族区域自治」などという有名無実の制度で自由を束縛され、 モンゴル人エリートたちは1966年から10年続いた文化大革命中数万人単位で粛清されました。

 人口約800万人とされるウイグル人は約100万人が強制収容所に閉じ込められているといいます。     このようなジェノサイド(民族を滅ぼしかねない大量殺害)の過酷さはナチスドイツを彷彿とさせる規模です。 中国の対外膨張に伴ってアジア周辺国のみならず 世界各国にも悲劇を与えつつあるのです。

 台湾の2019年の香港騒動で中国共産党の標榜する「一国二制度」の欺瞞を目の当たりにした「天然独」が受け入れるはずはありません。     しかし、世界各国は『遅れてきた独裁国家・中国』のますます巨大化する覇権主義を指をくわえて見守るだけです。    中国は武力と恫喝による台湾併合を進めていくだけでなく、周辺諸国に対してますます覇権主義的強硬外交を展開していき、 習政権の中国はこれまで以上に、アジアと世界全体にとっての脅威になっていくでしょう。(2020.4.26)


台湾有事は日本にとっても脅威

 尖閣周辺に海警局巡視船がほぼ毎日のように姿を現すのが常態化してしばらく経ちますが、台湾周辺においても2020年から中国軍機が台湾のADIZ(防空識別圏)に頻繁に侵入し、 しばらく周囲を飛行して反転帰投する、ということが繰り返されています。

 台湾のADIZは中国本土上空にまで広がっているため、中国軍機が台湾ADIZに侵入したから異常事態だと言うわけではないのですが、 トランプ政権が台湾への軍事的支援を強化する姿勢を見せ始めて以降、アメリカによって台湾海峡における台湾と中国本土の中間付近に設定されている「海峡中線」を、 中国は露骨に越えて台湾側を挑発し始めているのです。

 これまでは、中国軍航空機や中国軍艦艇が、海峡中線を越えることは稀な出来事だったのですが、2020年9月にトランプ政権高官が台湾を訪問して以降、 中国軍機が海峡中線を越えて台湾領空に向けて接近するケースが急増しています。

 そしていまや、第2次世界大戦でアメリカ潜水艦が日本輸送船を待ち伏せし、多くの日本輸送船を沈めたことから海の墓場と呼ばれていたバシー海峡で、中国潜水艦と対潜哨戒機が、 アメリカ海軍艦艇を待ち受ける態勢を固めつつあり、もはやアメリカが横須賀やグアムから空母打撃群や駆逐艦、攻撃原潜を南シナ海に送り込むことは安全とは言えなくなってきています。

 日本にとっても、南シナ海に出入りする際に通過するバシー海峡は、中東方面や東南アジアから原油や天然ガスをタンカーで運ぶ大事な生命線です。  万が一バシー海峡が中国軍にコントロールされる状況になった場合、 日本のエネルギー源は途絶してしまう可能性もあるのです。

 2021年4月3日、中国海軍の空母「遼寧(りょうねい/CV-16:65,000トン)」を中心とする6隻の空母艦艇群(グループ)が、東シナ海から沖縄・宮古島間を通峡(南下)して太平洋へ進出します。

 4月30日には中国海軍ジャンカイU級フリゲート、艦番号「515」1隻が、沖縄本島と宮古島の間の宮古海峡を南下して太平洋に進出。  その後、5月1日に台湾と与那国島の間の海域を北上し、 東シナ海へ向け航行していきました。

 もはや、台湾と南シナ海を取り巻く情勢は緊迫の度合いがますます高まっており一触即発の事態です。  これは日本にとっても直接の脅威であり、 まさに台湾の防衛は日本の防衛そのものなのです。(2021.6.5)


いよいよ覚悟を迫られる日本

 2021年4月17日に開かれた日米首脳会談後の共同声明で、菅首相は台湾問題を盛り込み、有事の際の日米防衛協力を表明します。  この声明により、 「台湾有事」が発生した場合、アメリカの同盟国である日本は、南西諸島における中国艦船の通過阻止、台湾島しょ部の防衛などで、自衛隊が米軍と軍事協力し支援する、 というシナリオが現実味を帯びてきたのです。

 いずれ中国が台湾に軍事介入しアメリカが反撃行動を起こす事態となれば、日本各地に点在する米軍基地のうち、沖縄の嘉手納・普天間基地はもちろん、横須賀や横田・佐世保・岩国など多くの米軍基地が、 中国のミサイル攻撃の標的になりうるわけで、たとえ日本が直接軍事行動に参加しなくても、日本が戦地になることは避けられません。

 いざ有事の場合となれば、自衛隊と中国軍との軍事衝突が起こることは不可避となります。  2023年1月のCSIS(米国の有力シンクタンク、戦略国際問題研究所)の2年間かけて行った24回の机上作戦演習によれば、 基本的、悲観的、楽観的、非常に悲観的、絶望的の5つのパターンで演習を行った結果、いざ戦争となった場合、「中国が台湾に上陸し、占拠することはできない」という結論になったといいます。

 櫻井よしこ氏によれば、日米台の勝利には、@台湾がもちこたえること、A米国が在日米軍基地を戦闘作戦に使用すること、B米国が中国防衛圏の外側から中国艦隊を迅速かつ大量に攻撃できること、の三つの重要な条件があるとしています。   ただし、中国軍の攻撃は必然的に日本を台湾有事に引き込むこととなり、この戦いにおいては日米は艦船数十隻、航空機数百機、軍人数千人を失うとされます。  台湾は国土を破壊され、経済再生に長い期間苦労します。   日本も在日米軍基地のみならず自衛隊の基地の周辺は破壊され甚大な被害を被ります。

 いま我々日本人は、日本列島が戦場と化すという最悪のケースも覚悟して中国と対峙するか、 それとも大人しく中国の軍門に下り、従属国の立場で未来永劫中国に支配される道を選ぶか、立ち向かうか、逃げるか、究極の選択を迫られているわけです。

 「世界の歴史は戦争の歴史」と言われます。   古来から中国のような侵略国家の横暴により、人類は悲惨な戦争に巻き込まれてきました。  そんな中、我々日本民族の先人たちは、 モンゴルロシア、 そしてアメリカという大国を相手に、 自国の国益と独立をかけ果敢に戦ってきた、独立独歩精神の旺盛な国です。

 日本は植民地支配の撤廃という、 人類史に残る偉大な功績を残してきた国であり、このまま中国の傍若無人な行動を黙って見過ごすことはできません。 もし今の時点で日本や先進国家が中国の覇権行為に歯止めをかけなかったら、世界の半分は中国に牛耳られ、 世界は再び力がモノを言う無法地帯となってしまうかもしれないのですから。

 ところが今の日本は、米国に敗れたたった一度の敗戦により、すっかり牙を抜かれてしまい、「羹に懲りて膾を吹く」国となってしまいました。   現実逃避の平和主義が蔓延し、「ダチョウの平和」を貪る国になってしまっているのです。    アメリカ合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンは、「戦争に備えることは、平和を守る最も有効な手段の一つである」、と言いましたが、 今の日本は自衛隊でさえ不要などという愚かな平和主義者が世論をリードする国となっており、台湾や尖閣が中国の支配下に置かれるかもしれないこの危機においても、 中国に逆らうな、と主張する連中が大勢いる始末です。

 このまま中国が拡張主義を掲げ続ける限り、いずれ戦いは避けられません。 せっかく先人たちの努力で世界第三位の経済大国まで上り詰め、自由で平和な生活を満喫できている日本が、暴力国家・中国によって、再び戦禍の波にのまれようとしているのです。      その昔、日本はABC包囲網に晒された挙句、 否応なく戦争へと突き進まざるを得なくなった時代がありました。

 このまま日本が何もしない国のままでは、台湾有事に巻き込まれるのは必須です。 日本は技術大国です。 大戦中も連合軍が驚愕した兵器を数々生み出しています。  アジア制覇を目論む暴力国家・中国に歯止めをかけるためには、 中国が恐れ手出しできないよう、一刻も早く賢く軍事費を使い強力な兵器を開発し防衛力を強化する必要があるのです。(2021.6.10)


2020年中国が台湾侵攻?

 米シンクタンク「プロジェクト2049研究所」の研究員は、「世界の火薬庫の中で最も戦争が起きる可能性が高いのが台湾で、 中国が2020年までに台湾侵攻の準備を終える」と指摘、 2020年には中台戦争が勃発する可能性があると示唆しました。(2017.11)

 ある共産党関係者は、「習近平は中国が領有権を主張する領土を取り戻すことで、歴史的英雄になろうとしている」、と看破したそうで、 中国は従来から「台湾は中国の不可分の一部であり、中華人民共和国が中国唯一の正統政府である」、 とする「一つの中国」を主張していますから、根も葉もないウワサ話しというわけでもなさそうです。

 2017年10月24日に閉幕した中国共産党大会で習近平は、「3つの歴史的任務の達成」を宣言。  その中で「現代化建設」「世界平和の維持と共同発展の促進」とともに掲げられた、 「祖国統一の完成」とは、台湾を中国の地図に加えることにほかならない、とされます。

 中国は台湾の問題を核心的利益と位置付け、米国などに対して干渉しないよう要求しています。   日本は1972年の日中共同声明では、「一つの中国」に対して同意を避け、 「理解し、尊重する」との立場にとどめていますが、日本は台湾問題を腫れ物にさわるように扱っています。

 東シナ海や南シナ海、インド、ロシアとの国境周辺などにも版図を広げ、尖閣諸島(沖縄県石垣市)を奪還する時期は2040〜50年とされている、 といいますからオダヤカではアリマセン。(2018.7.11)

 幸いなことに2021年5月時点ではまだこのような事態にはなっていませんが、中国は台湾侵攻の意図を隠そうともせず、あからさまな挑発行為を繰り返しています。  それに対し、 西側自由主義国は頻繁にアジア地域に艦艇を派遣し、中国へ圧力をかけようとしていますが、それで大人しくなるような相手ではありません。  台湾周辺の状況はますます風雲急を告げています。(2021.5.29)


「中国熱」冷めた中東欧諸国 台湾に接近

中東欧諸国で中国と距離を置き、台湾に接近する動きが目立ってきた。巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げる中国は欧州の玄関口にあたる中東欧地域を重視し、中東欧側でも同構想による投資に期待が大きかった。 しかし、中東欧諸国の一部はここにきて中国の人権状況を問題視し、一帯一路の経済効果にも懐疑的な見方を強めている。

「中国熱」が冷めつつある背景には、一帯一路を歓迎していた中東欧諸国にとって、中国の投資規模などが期待外れだったという事情もある。ルーマニアでは、 中国国有企業が出資して原子力発電所の増設を進める計画が頓挫した。英紙フィナンシャル・タイムズによると、 ポーランドもリーマン・ショック(08年)後の景気回復につなげようと中国との関係を強化したが、得られた恩恵は「不十分」(ドゥダ大統領)との認識を強めている。

中国離れと台湾接近の先頭を走るのは旧ソ連のリトアニアだ。民主化運動を通じて1990年にソ連からの独立を勝ち取った経緯から、中国の人権侵害にとりわけ厳しい目を向ける。 5月、リトアニア議会は中国による新疆(しんきょう)ウイグル自治区での人権侵害を「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と認定。リトアニア政府は7月、台湾の代表処(大使館に相当)を首都ビリニュスに開設すると発表した。 今月21日にはリトアニア国防省が、中国スマートフォン大手、小米科技(シャオミ)の製品には中国政府が警戒する用語の検出機能がついているとして不買を呼びかけた。

(2021.9.30 THE SANKEI NEWS 引用 )


 

日本統治を離れた台湾

 太平洋戦争敗北により、日本の台湾支配は1945年9月に終わりを告げます。  その後GHQの日本軍降伏接収の命令により台湾には国民党が進駐、 光復式典によって台湾が返還されます。   これにより、国民党は日本統治時代の50年にわたる膨大な蓄積資産「敵産」を一夜にして掌中にします。

 連合国最高司令官マッカーサの日本軍降伏接収の命令により、日本人の官吏はボールペン一本まで目録に掲載し引き渡したといいます。 これらの企業資産はすべてが国営、 もしくは省営の公企業となりました。

 しかし、国民党軍は統治意識が低く、粗暴な振る舞いで略奪を繰り返し、治安は極端に悪化、汚職もすさまじかったといいます。    その状況は、「犬(日本)の代わりに、豚(国民党)が来た」、と例えられているほどです。   日本人(犬)は偉そうに威張るが、番犬として我々を守ってくれた。  だが、中国人(豚)は汚くて食い散らすだけだ、というわけです。

 さらに、国民党は自分たちを「外省人」と呼び、以前からの台湾住民を「本省人」と呼んで差別。    学校教育も日本語を禁止し北京語教育に変えさせるなど、徹底的に反日教育を行います。

 さらに知識層を中心に弾圧を強めて行った結果、1947年、とうとう本省人の怒りが爆発、悲劇の二・二八事件が勃発。     3万人近い知識人や若者が国民党によって虐殺されるという事件が起きます。   初代台湾省行政長官の陳儀は本省人の暴動をなだめつつ、裏で蒋介石に軍隊の派遣を要請。

 陳儀は2月28日に戒厳令を出し、翌月2日に一旦取り下げるも、3月8日の大陸からの援軍到着を待って、 3月10日に再度戒厳令を敷き、本省人を殺戮したのです。  これで日増しに国民党への不満は高まるばかりとなります。


 

台湾に逃れた「中国国民党」

 その頃、中国本土において「中国国民党」と「中国共産党」の対立が再燃し、内戦(国共内戦)が激しさを増していきます。     1949年、毛沢東率いる共産党が「中華民国」の首都南京を制圧、「中華人民共和国(いまの中国)」を設立します。   このため対立する「中国国民党」の蒋介石ら政治家、官僚、軍隊が台湾へ逃げる事態となります。

 蒋介石が台湾に逃げる際、歴史的な宝物はほぼ持ち出してきたといわれ、 そのため北京の故宮博物館(紫禁城)にはほとんど宝物が残されていないといいます。   お宝は台湾の「国立故宮博物院」にあるわけです。

 1950年、台湾において蒋介石は南京国民政府を再組織し総統に復職、台湾の台北を臨時首都とし、全権を蒋介石が掌握し独裁政治が始まります。    台湾全域に戒厳令が敷かれ、解除されるまで38年間続きました。  蒋介石はずっと、「中国を統治する唯一の正統な国家は中華民国」、 というスタンスを主張し、ずっと「大陸反攻」のチャンスをうかがっていましたが、1975年4月5日に死去します。

 中華人民共和国(中国)は、いまでこそ我こそが中国代表、というスタンスで威張っていますが、歴史を辿れば、そもそも、 第二次世界大戦での戦勝国は、台湾に逃れた「中国国民党」の「中華民国」という国であり、さらに国連の常任理事国も以前は「中華民国」でした。    そんなことはお構いなく、後から乗っ取ったほうがホンモノの中国と名乗る時代は続きます。

 1972年2月21日、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中国本土の中華人民共和国を初めて訪問し、中国共産党政府を承認。  国交を樹立します。    それまでの米中関係を、対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問とされます。  その同じ年、 ニクソン大統領は政治生命を終わらせる「ウォーターゲート事件」により辞任しています。

 これにより国連代表権は中華人民共和国に移ったため、アメリカ・日本なども台湾との外交関係を断つという事態が生じ、 台湾は一気に国際的地位を低下させられ、いまだに独立した主権国家とは認められていない状態が続いています。  ニクソンも罪なことをしたものです。      ただ、米国は台湾を見捨てたわけではなく、台湾の中華民国政府 とは1979年に成立した「台湾関係法(Taiwan Relations Act)」 により事実上の軍事同盟関係にあり、 この関係は現在も継続しています。  国際政治は複雑なのです。


 

台湾国内に混在する独立派や中国統一派

 台湾は1987年に戒厳令が解除され、李登輝が総統になってからは台湾の自由化は更に進み、中華民国初の普通選挙も行われるようになりました。    その後の台湾は中国本土の中華人民共和国よりも国際社会での地位は安定しており、日本やアメリカと同じ資本主義ということで交流もあり、 経済的にも順調に発展していきます。

 1996年には台湾は民主化され、2000年には民主推歩党の陳水扁(ちんすいへん)が総統に当選し、台湾は中華民国史上初の政権交代が行われ、 世界的に見ても最も自由な国(地域)の一つとして先進国家(地域)の仲間入りを果たすことになり、現在に至っています。    今では台湾にも半導体を中心に世界一の企業も育ちました。 シャープを買収したホンハイも台湾企業です。

 2008年に親中的な政策を掲げる馬英九(ばえいきゅう)が総統となると、台湾は経済的に豊かになった中華人民共和国に歩み寄る姿勢を見せます。     現在の台湾は、政治的にも経済的にも、また文化面においても事実上は独立国家として機能していますが、国際的な見地で見るとやはり中国のひとつの地域であることから、 相変わらず中華人民共和国との対立や軋轢が続いています。   台湾国内においても、独立派や中国統一派など様々な考え方や思惑があり、 今後も現在の状況が引き続いていくとみられます。

 台湾は現在でも中華民国歴(略して民国)を使用しています。 1912年に南京において孫文を臨時大統領中華民国が成立しますが、 この1912年が民国元年となり、 2018年は民国107年になります。

 現在、台湾の民族構成は被占領者である本土台湾人と在台中国人が混在しています。  2017年3月、米国連邦高裁は台湾民政府の損害賠償の訴えを受け、 《台湾の主権者は日本、言い換えれば台湾は日本領であり、台湾を日本が中国から泥棒をしたと言うカイロ宣言は紙屑である》、という判断を示します。(2019.9.10)




 

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コトバ学
(*1).....チベット侵略
戦後、戦勝国となった中国が領土拡張のため1948年からチベットへ侵攻、全域を武力で制圧し中華人民共和国の支配下に入れた。 犠牲者の数は120万人以上とも。   現在でも中国に不満を持つチベット人の一部は反抗している。

(*2).....文化大革命
大躍進政策の大失敗により2000万以上の餓死者を出し、国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が、 権力回復の為に起こした政治闘争で1965年から約10年間続いた。

この間、中国は内戦状態の様相を呈し多くの人間が反動分子として処刑された。 犠牲者は大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと総計8000万人に達するという説もある。

(*3)......PC(political correctness)
政治的・社会的に公正・公平・中立的で差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと。 この運動を「政治的に正しいおとぎ話」と皮肉る向きもある。

(*4)......9段線
 中国南部・海南島の付近から南に下り、北東に向かってU字のカーブを描いて台湾に至る9つの破線で形成されている。南シナ海のほぼ全域を覆い、その形状から「牛の舌」とも呼ばれる。 
(*5)......甲申政変(こうしんせいへん)
1884年(明治17)の甲申の年朝鮮ソウルで起こったクーデター。   開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが朝鮮の独立と政治改革をめざし日本の援助で王宮を占領したが 二日後に清の武力干渉によって失敗した。


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