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日本悪玉説を捏造してきた日本人たち

 山正之氏が暫く身を置いた学者世界には「メディア・リテラシー」という言葉があるそうです。  リテラシーとは識字能力を意味するそうで、新聞やテレビが流す報道などは、 それが信じるに値するものかどうか見抜く力とでも訳すのでしょう。

 白人列強による植民地支配に終止符を打ったはずの日本は、戦後は 「戦争犯罪国家」にされてしまいましたが、その理由については「日本は中国支配を目論み侵略した」とされてしまった 支那事変(日中戦争)だけ見ていてもわかりません。  そもそも 戦勝国側のウソ話に騙されている日本は、 政治家からして一方的な反日歴史観を持つ国となり、 日中戦争は「日米戦争」だったことも知りません。

 敗戦国となった日本は、戦勝国側の主張に反論できない日本人ばかりとなり、中国・韓国に 「我々は被害者で、日本は我々を侵略した」と責められると、日本人はうつむき申し訳なさそうに謝罪する国民になり果てています。    しかし、 維新前後においても有色人種を家畜扱いし人身売買を行い、利用価値が無くなればゴミのように処分していた欧米とは違い、 明治期の日本人は人権感覚の持ち主だったはずで、本当に我々日本人の「先祖」たちは 巷間で言われる中国、朝鮮に侵略して残虐非道な行為を行ったのでしょうか。

 戦後も80年も経つと、敗戦国となった昭和20年代の《天皇が、軍隊が、日本人が全部悪いとして、「日本人罵倒論」 が社会的ヒステリー症状を呈し、おおはやりだった(平川祐弘)》熱気も多少は落ち着いて、 日本の悪口をメシのタネにする 反日的日本人も大分少なくなっています。  しかし、新聞やテレビにおける先の戦争報道は、相も変わらず 「日本は加害者で中韓はその被害者」という認識から一歩も抜け出せず、中国・韓国に未来永劫謝罪を要求されるのが当然であるかのような報道内容に終始しています。

 それもこれも、歴史は常に勝者のものであり、 メディアもプレス・コードで報道機関を厳しく統制したGHQ時代の影をいまだに引きずり、 勝者側の言いなりになっているからです。  敗戦国となって80年間、 日本は日本側の立場に立って過去の戦争を検証し、本当は何があったのか研究する機会が奪われてきたわけで、その結果、 日本人は戦勝国側のウソ話に騙されていることに気付かず、政治家からして 「我が国は侵略国家」と宣言し、 総理大臣が嬉々として犯罪国アピールする国となっているのです。

 だから、「日本は昔、アジアの国々でたいそう悪いことをしたな」と迫られると、何も言い返せず下を向くことしかできないのです。  それもこれも 「日本の立場も考慮した本当の歴史」は教科書も政治家も新聞もテレビも、誰も教えてこなかったからです。   近現代史本に至っては、戦勝国側の立場で書かれているものが大部分で、 日本をくそみそに悪者扱いしているものばかりです。  これでは到底日本人が戦争の真実を知ることは叶いません。

 これに輪をかけてきたのが、勝者側につき祖国を喜んで悪者にして、 インチキ歴史を捏造して 日本の悪口をメシのタネにしてきた 反日的日本人たちです。  この連中が、 中国・韓国の「日本の旧悪糾弾」を真に受け、せっせと日本悪玉説を捏造してきたのです。

 ここでは、その日本悪玉説を捏造してきた日本人たちの中から、反日的日本人記事には載せていない、 主に新聞もテレビにおいて「日本悪玉説」をタレ流した人物を紹介しています。(2025.8.7)


  

朝日新聞のスター記者・本多勝一

 日本悪玉説を捏造したといえば、戦後日本を「侵略国家」に仕立てた最大の黒幕・朝日新聞 がその急先鋒ですが、そこのスター記者などと持ち上げられ、後に国賊ジャーナリストとも呼ばれるのが本多勝一という人物です。     1971年から朝日新聞は本多による「中国の旅」を全40回にわたって掲載しますが、 これこそが、日本に自虐史観が形づくられた原点」とされます。

 この旅は、中国共産党中央委員会が招待し、「中国各地を引き回し、共産党がお膳立てした『語り部』に日本軍によって受けた『被害』 を本多に語らせた」(藤岡信勝「日本虚人列伝『本多勝一』」ものであり、当然、反日の急先鋒・朝日新聞に日本軍の非道ぶりをアピールするためのプロパガンダ工作でした。  これでは読む前から、 中身は日本軍が中国各地でいかに残虐行為を行ったかのオンパレードになっているか予想できます。

 この「中国の旅」は、平頂山事件万人坑南京事件三光政策の4部に分かれて報じられ、 中国を舞台にした日本軍・民の常軌を逸した残虐行為(もちろんウソです)が、これでもかとばかり書かれており、一大反響を巻き起こします。  この連中がここまでシャアシャアと偏向記事を連発するのも、 WGIPによる「反日日本人」育成にすっかり染まってしまい、中国のプロパガンダ(政治宣伝)に共鳴した結果なのでしょう。   その後も朝日新聞は日本軍の「残虐行為」をデッチあげ、 偏向報道を垂れ流すことをセッセと繰り返していくのです。

 中国の手先・本多が書いた「中国の旅」は、予想を裏切らないどころか、あまりの中身の凄惨さに恐怖を覚えるほどで、これがきっかけとなって「日本人に自虐史観が形づくられた」のも無理はありません。   しかも、連載当時は多くの関係者が存命であり、本多と朝日に猛抗議したのですが「門前払い」されています。  本多といえば有名なのが、 この抗議を受けた際に反論したセリフです。

 ナント、「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い放ったのです。    我々日本人はこんな卑劣で厚顔無恥な連中によって、嘘まみれの日本軍の残虐話がデッチあげられ、そのウソを笠に着た中韓に謝罪を強いられ、今に至るまで「戦争犯罪国家」の汚名を着せられたままでいるのです。

 『南京大虐殺』という言葉も、 本多が昭和46年に中国で取材した旧日本軍についての朝日新聞連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)を再編集した「中国の旅」の中で触れたのが最初といわれます。     本多はその著書『中国の日本軍』(昭和47年)の中でも、お得意の捏造話によって日本軍を徹底的に貶めています。

 その、旧日本軍による「残虐行為」の証拠とされる一つが、小銃を肩に担いだ軍服姿の男性らとともに、 笑顔を浮かべて橋を渡る女性や子供たちの一群の写真です。  その説明文には、「....婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。  強姦(ごうかん)や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ...」、 などと日本兵がいかに残酷だったか、見てきたかのように断言しています。

 しかし、これは1937年(昭和12年)11月発行の「アサヒグラフ」が掲載した、「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」の写真であることが後に判明しています。    そもそも、「狩り集め」られた人間が笑顔をうかべるハズなど無いという常識さえ持ち合わせていないのです。  しかし、本多は2014年のインタビューで写真誤用を認めますが、 書籍の回収や訂正は行っていません。

 また、日本軍が農民たちから食糧を強奪した、というウワサ話の裏づけのつもりだったのか、鶏2羽を肩から提げて笑顔を見せる日本兵の写真についても、 その説明文には、「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」、とこれまた日本兵の非道さを強調する文が記されています。 しかし残念ながら、この写真も、 もともとは12年12月5日発行の「支那事変画報」(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)の掲載写真であり、実際は代価を払って鶏を購入していたそうです。

 このように、本多や朝日新聞は何の裏づけもとらず、信憑性などお構い無しで、日本の画報からキャプションを改竄した写真や、 撮影者や撮影場所など基本的な情報を欠いた戦争犯罪と無関係な写真を、勝手に改竄して用い、ひたすら日本軍悪行説の史料にしていわけです。  このように、根も葉もない様々な 「日本軍残虐記事」を、嬉々として日本悪玉説として流布させていった反日勢力によって、戦後の日本は 「残虐な日本兵が中国で酷いことをやった国」というレッテルを張られてしまったのです。

 日本悪玉説を捏造するスペシャリスト・本多勝一は「百人斬り競争」にも登場します。   1971(昭和46)年、 本多は朝日連載「中国の旅」で、チャンバラ映画的ストーリーではリアリティさに欠けると自覚したのか、戦闘中の出来事ではなく捉えた捕虜を殺害した、つまり「据えもの百人斬り」 だった、 とするヨタ話を展開したことで「百人斬り競争」が再びスポットを浴びることになりますが、 これが命取りになって新聞人として死亡宣告を出された形となります。(2025.8.7)


「日本軍残虐説」の根拠にされた事件

   

起こった出来事 その概略
1927年(昭和2年)3月24日

「南京事件」
北伐軍の一部・国民革命軍と第六軍が南京を占領した際、第六軍共産党員兵士と暴徒が日本やイギリスの領事館、米国系の大学や教会を襲撃し、外国人数人を殺傷する (1937年の南京事件とは別) ..
1928年(昭和3年)5月3日

済南事件
蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)の一部が、中国山東省の済南(さいなん)で日本人を略奪・暴行・殺害する事件を起こす。  これを例によって戦後は 「一連の日本軍の攻撃により、済南では一般市民を主として数千人にのぼる死傷者を出すに至った」 などと一方的な反日媚中の史実がまかり通っている..
1937年(昭和12年)7月29日

通州事件
中国人部隊と支那人学生が日本人居留民を襲撃し、 猟奇的な殺害、処刑方法で、女性・子供まで含む全員を殺戮するという残虐非道な事件..
1937年(昭和12年)8月14日

上海爆撃事件
上海で一番の繁華街、南京路をはさんでイギリス資本のホテル、カセイホテル・パシフィックホテルが数機の爆撃機により空爆を受けるが、中国メディアは「日本軍機による爆撃」との偽報道を流し、 このニュースは世界中に流され国際社会の日本に対するイメージはますます悪化していく..
1937年(昭和12年)8月14日

第二次上海事変
第二次上海事変中の8月14日には、中国国民党軍機による爆撃により、上海のイギリス資本のホテルが空爆され、数十人の欧米人が死傷し、さらに娯楽施設も爆撃され3000人以上の民間人が死傷する 「上海爆撃事件」が起きるが、 中国メディアは「日本軍機による爆撃」との偽報道を流し、このウソ報道で国際社会の日本に対するイメージはますます悪化していく..
1937年(昭和12年)12月10日

でっち上げられた「南京事件」
日本軍が中華民国の首都・南京市を占領した際、 中国軍(国民党政府軍)の便衣兵(べんいへい・一般市民に偽装した軍人。 国際法違反で捕虜となっても裁判にかけられ処刑される)、 敗残兵、捕虜、一般市民など30万人を殺害したとされる事件 (1927年の南京事件とは別) ..
1938年(昭和13年)6月

黄河決壊事件
蒋介石は日本軍の進撃を止める目的で開封北西の五荘など数か所で黄河の堤防を決壊させ氾濫させる..
1938年(昭和13年)〜

重慶爆撃
中国側が防空砲などの軍事施設を、飛行場や軍事施設ではなく、わざわざ街中に集中配備したこともあり、後年、 日本は無差別爆撃で外国人含む多数の民間人を死傷させたとして 「重慶爆撃は世界戦史上空前の長期かつ大規模な都市無差別爆撃」などと批判される..
1942年(昭和17年)4月

バターン死の行進
真珠湾攻撃直後の1941年12月22日にルソン島に上陸した日本軍は、翌年1月2日には首都マニラを占領。  さらに、 1942年4月から5月にかけてバターン半島とコレヒドール島に立て篭もっていたアメリカ軍を降伏させ、 マリベレスからサンフェルナンドの区間83kmを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で3日間行進することになった。  この区間の行軍が『死の行進』と呼ばれた....
1942年(昭和17年)6月〜1943年(昭和18年)10月

日本と泰緬鉄道の話し
この工事は日本兵が約1万人、南方各地から集められた現地人工夫約7万人、それにオーストラリア兵・オランダ兵の捕虜が約5万5000人の計13万5000人 という大規模工事であり、建設隊には日本人のとび職や左官、石工、 そして大工といった多くの技術者・専門職が集められ、難しい工事は彼らが担当したもので、捕虜が中心となって工事が進められたわけではない..
1944年(昭和19年)春

インパール戦で焼き殺された日本兵
激戦地の一つミッションヒルでは英軍機が日本軍の野戦病院にまで銃撃を加え、日本軍傷兵にガソリンをかけて焼き殺す..
1945年年(昭和20年)1月

マニラ大虐殺
「マニラの市街戦」において一般市民10万人が日本軍の常軌を逸した残虐行為で殺されたとされた事件。 これに朝日新聞は「ほとんど全部の日本人が異口同音にいっている事は、かかる暴挙は信じられないという言葉である」と、GHQの言い分に 真正面から反論し、さらに、関係者からの真っ向否定する反響を載せる..
年(年)月日

「毒ガス」使用のウソ
朝日新聞が日中戦争の戦場で日本軍が煙幕をたいたのを「毒ガス」に仕立てた..産経が追い打ち記事を出しその嘘を暴いたため不承不承訂正したが、「化学戦の場所が違った」と姑息な言い逃れをした...
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(2025.8.7)




「日本悪者説」に凝り固まった日本人たち

   

起こった出来事 その概略
年(年)月日

日本の悪口をメシのタネにする日本人
戦後日本にはいまだに「日本悪玉論」が蔓延し、 歴史に無知な政治家ばかりとなり、「反日的日本人(進歩的文化人)」とやらのたわ言で、 いまではなんでも「悪者」にされる国にされた..
年(年)月日

反日的日本人・政治家編
「教科書誤報事件」に振り回され内閣総理大臣からして日本を侵略国家に仕立てた..
年(年)月日

日本は善か悪か「踏み絵」を迫る田原総一朗
テレビ番組でこれから日本を背負って立つであろう新人政治家に対し、日本が戦争に至った経緯は日本に非があったか否か、 という「踏み絵」を迫り、「日本擁護論」を述べようものなら、 血相変えて否定・批判する人物...
年(年)月日

石破茂の危うい「戦後史観」
本当の戦争の歴史も知らず、 一方的な反日歴史観で朝鮮の肩を持つ政治家..
年(年)月日

インチキ歴史を捏造した家永三郎
吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』に飛びつき、 日本を戦争犯罪国家へ突き落す大捏造話へ..
年(年)月日

朝日の片棒を担いだ吉見義明
日本軍は事実上監禁した彼女たちを殴ったり蹴ったりするなど乱暴に扱い日本軍の性奴隷とし、慰安婦たちは高額な前借金と増えていく利子によって奴隷的に縛られていたと主張..
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(2025.8.7)




「法治国家日本」が行ったこと

   

起こった出来事 その概略
1872年(明治5年)10月

「牛馬切りほどき」
「日本は女性を遊女売買などで奴隷的に扱っているではないか」とされたことで、法理論的に無理筋の屁理屈 「牛馬切りほどき」により遊女たちの借金を棒引き..
1942年(昭和17年)1月

インドネシアをオランダの圧制から解放した堀内海軍大佐
350年にわたりオランダの支配下にあえいでいた過酷な生活から現地の人を解放し、住民が驚くほどの大幅な減税を行い、メナドにおいて捕虜にしたインドネシア兵を短期間のうち釈放し、 現地では貴重品だった食塩を分け与え、製塩技術を教えた..
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(2025.8.7)




嬉々として「虚偽証言」する日本人たち

 「慰安婦強制連行説」を言い立てたのは吉田清治ですが、旧日本軍人の社会活動家、 東史郎は中国において「隠れている中国人女子を見つけると100%犯した、1人ではなく5人で犯した、その後は殺し、火をつけて燃やした、罪悪感はなかった」、 「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」などと、「自分がやった、見た」と証言した人物ですが、法廷ではあっさり 「虚偽証言」とたしなめられています。

 戦後日本は吉田清治や東史郎のような「戦勝国側に寝返った反日的日本人」たちによって様々なウソ話が生み出され、犯罪国家扱いされてきました。    このウソつき連中の残虐話には共通点があります。  それは言い立てる虐殺の手口が、日本人の知らない中国の歴史に刻まれたやり方ばかりという点です。

 (2025.7.3)


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